イランとは?
まずは、イランとはどんな国か、基本情報や他国との位置関係を確認しておきましょう。
イランはどこにある?
アジア大陸の南西部にあるイランは、アフガニスタン・アルメニア・アゼルバイジャン・イラク・パキスタン・トルコ・トルクメニスタンと国境を接し、「大中東」と呼ばれる地域の中心的な位置に所在します。
基本情報
首都
テヘラン
人口
8,920万人(2023年、世界人口白書2023)
面積
1,648,195平方キロメートル
(日本の約4.4倍)
言語
ペルシャ語・トルコ語・クルド語等
民族
ペルシャ人
他、アゼリ系トルコ人・クルド人・アラブ人等
宗教
イスラム教(主にシーア派)・他にキリスト教・ユダヤ教・ゾロアスター教等
時差
4時間30分。日本のほうがイランよりも4時間30分進んでいます。
イランの経済
世界第2位の埋蔵量を持つ石油と、中東最大の生産量を誇る天然ガスの輸出に支えられています。
イランの政治体制
現在のイランの政治体制は、選挙で選ばれた大統領と国会が、最高指導者(宗教法学者に賦与される)に従属する二重構造になっています。
大統領は行政府の長であるものの、国政の決定権をもつのはあくまでも最高指導者。最高指導者はイランの元首として、軍や司法、国営のテレビ・ラジオ放送も監督します。
イランの歴史は? 古代から近年までの流れを横断
世界で最も古い歴史を持つ国のひとつといわれるイランは、1935年に改名するまで、ペルシアと呼ばれる国でした。ここでは、そんなイランの古くから近年までの歴史をざっくりとご紹介いたします。
ペルシア帝国
イラン高原は、1万年も前から人々が村を作って生活しており、世界最初の文明のいくつかが誕生した場所とされています。このような村々が発展してスーサという都市になると、紀元前3200年には原エラム文化の時代がはじまり、それから500年後にはエラム人の王朝が誕生。
エラム人は2000年もの間、イラン西部を支配しつづけましたが、もともと東部に住んでいたアーリア民族の中のメディア人と呼ばれる人々が勢力を伸ばし、紀元前8世紀ごろにイラン西部を征服します。
紀元前559年頃には、おなじアーリア人でありながらペルシア人とよばれる人々が力を持ち始め、メディア人を破ってペルシア帝国を建国しました。
世界でもっとも進んだ文明国に
その後、ペルシア帝国は領土を拡大したり、当時もっとも栄えていたメソポタミアやエジプトをも支配下に置いたりしながら、世界でもっとも進んだ文明国のひとつになりました。
しかしながら、紀元前330年にはギリシア人によって滅ぼされ、その後は70年もの間ギリシアの支配下に。
今度はそれが遊牧民のパルニ人によって倒されたことで、パルニ人の時代へと入り、それは5世紀にわたって続きました。その間にもギリシアやローマから侵入され、やがてこの国は崩壊してしまいました。
イスラム教徒による征服まで
その後は、ペルシアの貴族アルダシールが支配権を握ったササン朝と呼ばれる時代がはじまり、それは400年もの間つづきます。
しかし、数世紀にわたったローマとの争いによって、ペルシアは弱体化。当時新興宗教であったイスラム教を掲げて戦うアラブ人によって滅ぼされ、642年にはペルシアはイスラム帝国に併合されました。しかしながら、ペルシアの支配層は残され、国内の行政にあてられたため、イスラム教の影響を反映しながら、ペルシア文化は維持されることとなりました。
1200年代にはモンゴル人によってペルシアは滅ぼされ分裂。次に、神秘主義教団の家に生まれたイスマーイールにサファヴィー朝として再統一されたのは1501年のことでした。
外国からの支配
サファヴィー朝の支配がアフガン人の支配によって終わると、支配者が次々に変わる混乱の時代がはじまります。
1796年にアーガー・ムハンマド・ハーンがペルシアの支配権をにぎってカージャール朝をひらいたことで、その流れは一時的に止まったものの、ふたたびペルシアは諸外国から干渉されるように。
そして、ペルシアはロシアに北部領土を、イギリスにペルシャ湾の港を占領され、第一次世界大戦中はその両国からの内政の支配を受けます。1917年にロシア革命が起こった後も、イラン独立を支持するイギリスから、実質的には支配を受け続けました。
国名がイランに
1921年、イランの独立を回復した「偉人」であり「独裁者」でもあった軍人のレザー・ハーンが国王となり、ロシアやイギリスの干渉を排除。国家の近代化をはかり、1935年にはペルシアではなく、「イラン」という国名を使うように勅書も出しました。
イスラム革命まで
しかしながら、第二次世界大戦中の1941年には、イランはイギリスとロシアによって占領され、同年の9月にはイギリスによってレザー・ハーンが強制的に退位させられます。
その息子であるモハンマド・レザーが後を継ぎましたが、モハンマド・レザーは首相のモハンマド・モサッデクと対立し、信頼する友人の元アメリカ国務長官キッシンジャーの働きかけによってアメリカへと亡命。アメリカのCIAや英国の情報機関、イラン軍の一部がモサッデクによる政権を倒したことで、モハンマド・レザーは再び王位につくこととなりました。
この後、モハンマド・レザーは1979年まで皇帝としてイランを支配。国の近代化を行い、石油の輸出によって経済的に成功しましたが、経済的に成功する一方で、多くの国民はそのような王制を不道徳と捉え、宗教指導者であるホメイニ師を支持します。
1964年にホメイニ師は国外へと追放されますが、1979年、モハンマド・レザーは政権を奪われ、イスラム革命が成功し、イランはイスラム共和制の国となって、ホメイニ師が最高指導者の地位につきました。
イラン・イラク戦争から、核兵器開発疑惑まで
ホメイニ師が最高指導者になった翌年の80年9月から88年までのおよそ8年間、イランはイラクと100万人以上もの犠牲者を出す戦争をしていました。この紛争のきっかけとなったのは、直接には領土問題や内政干渉などがありますが、その根底にはアラブ・ペルシャの対立や宗教上の問題等の争点も存在していると言われます。
その後は、2002年にイランが秘密裏に核施設を建設していたことから、核兵器開発疑惑が浮上。核不拡散条約で核兵器の所持が認められていないイランは、このことが原因で国連によって経済制裁の決議が採択されます。欧米をはじめとした他国はイランに制裁を下すこととなり、イランの経済は停滞します。
2019年5月にはアメリカがイラン原油の全面禁輸をはじめると、イランは反発して核合意の停止を宣言。核開発を強化していくという対抗措置を取ることに決めました。この核兵器開発疑惑は、昨今のイスラエルとの対立の先鋭化をうながす一要因にもなっています。
イランの文化・特徴|治安や人権に関する問題
ここからは、イランの文化や特徴、治安や人権の面で抱えている課題を見ていきましょう。
ペルシア絨毯や建築などの芸術
イランの文化や芸術を代表するもののひとつとして、ペルシア絨毯(じゅうたん)が挙げられます。ペルシア絨毯とは、主に羊毛や綿で織られた古代ペルシアから作られてきた絨毯です。唐草文様・アラベスク文様・忍冬文様・円形文様・幾何学文様など、さまざまなモチーフがあしらわれ、現在でも最高級の絨毯とされています。
また、イランの芸術を語る上で欠かせないのが、豊かな歴史の影響を受けた数々の貴重な建造物。代表的なものとしては、ダレイオス大王がペルセポリスに建てた宮殿の大広間の遺跡や、イスラム教徒によって征服された際の影響が見られるイマームの寺院などが挙げられます。
「ペルシア建築」とも呼ばれるイランの建築の歴史は少なくとも紀元前5000年にまで遡り、構造的にも美的にも多様性に富んだものとして世界中から評価を受け続けています。
治安状況は?
宗教に厳格で国民の道徳教育もイスラム教に基づいて徹底されていることから、本来、イランは「観光客にとっては安全な国」と言われていました。しかしながら、親切な人も多い一方で、実際にはスリやひったくり、痴漢が頻発しており、観光で行く際にも十分な注意が必要です。
また、2024年4月には、日本の外務省は「イランによるイスラエル攻撃を受けた注意喚起」として、イランへの渡航中止勧告を出しています。この勧告が解除されるまでは、イラン旅行は控えるようにしましょう。
酒・麻薬・ポルノは禁止。服装にも注意!宗教に関連した法律と社会ルール
イランの法律や社会的なルールの多くは、イスラム教に準じています。そのため、麻薬はもちろん、酒やポルノは禁止。
服装に関しても、女性はヘジャブと呼ばれるスカーフで髪を隠し、長袖・長丈を着用してボディラインを見せないようにする必要があります。男性も短い丈のズボンを履くのは基本的にNGです。
思わぬトラブルに発展する可能性があるので、将来的に訪れる機会があった場合は、イスラム教特有のルールをしっかりと押さえておくようにしましょう。
イランは親日国と言われる理由
日本とは険悪だった期間が一度もなく、 2019年には日本との国交樹立90年を迎えたイランは、「親日国」と言われる国のひとつです。
親日国と言われる理由としては、かつては「古くから日本とイランはシルクロードでつながっていたこと」が挙げられる傾向にありましたが、昨今では、むしろ地理的・歴史的にも距離があり「関わりが少ないこと」が要因になっていると考える人も増えているようです。
ほか、1953年の日章丸事件で、石油国有化を断行したイランに英国が経済制裁を行ったことに対して、出光興産が独自にイランへタンカーを派遣したことや、日本のアニメ作品の人気等々も、イランの親日国化の背景の一部として捉えられています。
女性の人権が厳しく制限された国
イランは、女性は家で子どもを育てることが伝統とされるほか、公の場ではヘジャブと呼ばれるスカーフで全身を覆うことが求められたりと、女性の人権が厳しく制限されている国としても知られています。
女性の服装に関するルールはレザー・ハーンが近代化を推進した中で一時的に改革されましたが、1979年のイスラム革命によって、再び義務に。一方で、イスラム革命後の新たな憲法では、女性の社会進出が認められたりと、女性の人権に関する前向きな動きもありました。
このことによって、大学へ通う女性が男性の数を上回ることもありましたが、2022年以降、女子教育の停止を目的とした女子生徒への毒ガステロが相次いでいたりと、思想によっては女性の社会進出を認めない人も未だ少なくありません。(※この毒ガステロは、2022年9月に女性のヘジャブの付け方を理由に逮捕され、勾留中に亡くなった22歳女性マフサ・アミニさんの死をきっかけに起こった反政府デモへの、イスラム原理主義勢力による報復に連なるものと考えられています。)
イラン国歌
1979年のイスラム革命によって、王制から現在の共和制へと転換したイランの国歌の歌詞には、「バフマン月(イスラム暦の11月=イスラム革命が達成された月)」「イスラム革命」「ホメイニ(イスラム革命時の精神的指導者であり、その後1989年までのイランの最高指導者)」といったワードが入っています。
2022年11月に中東カタールで行われたサッカーワールドカップでは、イラン代表チームが試合前の国歌斉唱を拒否したエピソードは今でも記憶に新しいのではないでしょうか。
これは、先述したマフサ・アミニさんの死をきっかけとした、反政府デモを続けるイランの女性たちをサポートし、政府の対応への反対の意思を示したものでした。
政治、治安、人権…複雑な課題を抱える一方で、美しい国土や文化、芸術を誇る国
今回は、イランの基本情報や歴史、政治体制、治安などについてざっくりとご紹介してきました。
イランは、政治や治安、人権等において、複雑な課題を数多く抱える一方で、美しい国土を持ち、歴史に富んだ文化や芸術を持つ国でもあります。その複雑さは、一度の記事では語りきれないほど。気になったポイントはぜひ深掘りしてみてくださいね。
あなたにはこちらもおすすめ
文・構成/羽吹理美
参考:ナショナルジオグラフィック 世界の国 イラン(著:レオン・グレイ/監修:エドマンド・ハーツィグ、ドーレ・ミールヘイダール/ほるぷ出版)
:外務省・海外安全ホームページ「イランによるイスラエル攻撃を受けた注意喚起」
:JBpress「イラン人が「親日」になった理由 なぜアメリカでもイギリスでも中国でもなく、日本人を意識するのか」
:BAZAAR「サッカーW杯イラン代表、国歌斉唱「拒否」で女性たちをサポート」