「倭寇」は日本人だけではなかった? いつどこで活動したのか、有名人物などをチェック【親子で歴史を学ぶ】

中世の日本近海に「倭寇」と呼ばれる海賊集団が存在したことを、歴史の授業で習った記憶がある人は多いでしょう。倭寇は日本のみならず、中国や朝鮮半島の歴史にも大きな関わりを持ちます。倭寇が活動した時代背景を、有名人物も交えて解説します。

倭寇とは、何?

「倭寇(わこう)」とは、何を意味する言葉なのでしょうか。倭寇の定義と構成員について見ていきましょう。

東アジア海域で活動した海賊的集団

倭寇は、九州北部や瀬戸内海地方を拠点に、東アジアの海域で略奪行為や密貿易をしていた海賊的な集団の呼び名です。倭には「日本人」、寇には「侵略」の意味があります。

倭寇は、活動時期によって「前期倭寇」と「後期倭寇」に区分され、それぞれ構成員や活動範囲、規模が大きく異なります。

前期倭寇は、13~14世紀に食糧や人を奪うために、朝鮮半島や中国大陸沿岸の集落を襲った日本人主体の武装集団です。被害を受けた朝鮮半島や中国の人は、彼らを倭寇と呼んで恐れました。

倭寇の様子を伝える絵図 Wikimedia Commons(PD)

倭寇は、日本人だけではなかった

言葉の由来からも日本人のイメージが強い倭寇ですが、実際には外国人も多かったことが分かっています。前期倭寇は、日本人の豪族や商人、漁民などが中心でしたが、高麗(こうらい、朝鮮)の海賊も参加していたと伝わっています。

一方、後期倭寇の構成員は、ほぼ中国人で占められ、日本人の割合は低かったようです。後期倭寇には、アジアに進出してきたスペイン人やポルトガル人も交じっており、国際色が豊かでした。

倭寇盛衰の歴史

倭寇は、どのようにして現れ、いなくなったのでしょうか。前期倭寇の出現から後期倭寇の消滅までの流れをチェックしましょう。

前期倭寇の出現

倭寇の文字は、1223(貞応2)年の「高麗史」の記事に初めて登場します。九州の北部や瀬戸内海沿岸には、古くから中国や朝鮮半島と交易する集団がいました。彼らの一部が、生活のために略奪行為に及んだのが、前期倭寇の起源と考えられています。

前期倭寇が頻繁(ひんぱん)に出没するようになったのは、14世紀の中ごろです。13世紀末、モンゴル帝国から中国王朝となった「元(げん)」が2回にわたり日本に侵攻し(1274、1281)、進軍経路にあった壱岐(いき)や対馬(つしま)が壊滅的な被害を受けます。人手不足となった島では田畑の荒廃が進み、島民は厳しい暮らしを余儀なくされました。

新城古戦場千人塚「元寇殉国忠魂塔」(長崎県壱岐市)。千人塚は1274(文永11)年の「文永の役」で最後の激戦地となったといわれる場所に立つ。左には観音像、右には本来の千人塚の標石である自然石がある。元軍は暴虐の限りを尽くし、多くの島民が犠牲になった。
新城古戦場千人塚「元寇殉国忠魂塔」(長崎県壱岐市)。千人塚は1274(文永11)年の「文永の役」で最後の激戦地となったといわれる場所に立つ。左には観音像、右には本来の千人塚の標石である自然石がある。元軍は暴虐の限りを尽くし、多くの島民が犠牲になった。

14世紀に入ると、鎌倉幕府が滅んで「南北朝」の争乱が起き、壱岐・対馬を含む北九州一帯はますます困窮します。そこで住民たちは、船に乗って中国や朝鮮半島沿岸の集落を襲い、米や人を奪うようになったのです。

襲われた中国や高麗でも、当時は政情が不安定な状態が続き、倭寇に対処する余裕はありませんでした。

室町幕府の取り締まりで衰退

1392(元中9、または明徳3)年に、朝鮮半島と日本で起こったできごとにより、倭寇を取り巻く状況は一変します。朝鮮半島では倭寇討伐に手柄のあった李成桂(イソンゲ)が、高麗を倒して「李氏朝鮮(りしちょうせん)」を建国します。

李成桂 -Wikimedia Commons(PD)

李は、港を整備して民間貿易を認めたので、朝鮮半島沿岸における倭寇の活動は収まっていきました。同じ年に、日本では室町幕府3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)が南北朝の争乱を終わらせています。

1404(応永11)年、義満は倭寇の取り締まりを強化したうえで、「明(みん)」との正式な貿易を始めます。このとき、倭寇の船と公的な船を見分けるために使用したのが、「勘合(かんごう)」と呼ばれる札です。日本と明との間で勘合貿易が成立したことで、中国沿岸でも倭寇の姿は見られなくなりました。

勘合符「戊子入明記」の例図より。文字列の半分だけを印字した符札を、もう半分を印字した貿易相手の符札とあわせて確認する。Wikimedia Commons(PD)

密貿易で稼いだ後期倭寇

前期倭寇が衰退してしばらくたつと、密貿易を目的とする後期倭寇が出現します。後期倭寇の多くは民間貿易を禁止した明の「海禁策(かいきんさく)」に反発する中国の商人たちでした。

ちょうどそのころ、日本では「応仁の乱」をきっかけに戦乱の世が始まり、勘合貿易が停止します。そこで明の商人らは、日本の海賊と手を組んだり、自ら武装したりして密貿易を強行したのです。

彼らは台湾やフィリピン沿岸にまで進出し、大いに稼ぎます。後にポルトガル人やスペイン人も加わり、16世紀の中ごろには最盛期を迎えました。

しかし1567(永禄10)年に、明が海禁策をやめたことで倭寇の活動範囲は狭まります。日本では、1588(天正16)年に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が「海賊停止令(かいぞくていしれい)」を出し、取り締まりが強化されました。秀吉の方針は江戸幕府にも引き継がれ、倭寇は歴史から姿を消すことになります。

倭寇に関わる有名人物や資料

歴史上のできごとを理解するには、実物を知ることが近道です。倭寇として名を馳(は)せた人物や、倭寇の様子が分かる資料を紹介します。

後期倭寇の代表的存在「王直」

「王直(おうちょく)」は後期倭寇を代表する、明出身の貿易商です。五島(ごとう)列島や平戸(ひらど)を拠点に活動し、莫大(ばくだい)な富を手にしました。王直の部下は2,000人を超えたとされ、平戸では、まるで王様のように暮らしていたと伝わります。

王直は、日本に鉄砲を伝えた人物としても知られています。1543(天文12)年、種子島(たねがしま)に漂着したポルトガル船は、実は王直が所有する船でした。すでに鉄砲の威力を知っていた王直は、戦(いくさ)の続く日本に伝えれば、必ず売れると考え、漂着を装って売り込んだとされています。

鉄砲伝来の地「門倉岬(かどくらみさき)展望台」(鹿児島県熊毛郡南種子町)。展望台は言わずもがなの当時の漂着した南蛮船をかたどったもの。種子島南端の岬は、当初「熊毛崎」と称していたが、伊能忠敬の測量を指揮していた「門倉一太」の名に変更されている。

やがて王直は、倭寇の大船団を率いて明を襲うようになります。執拗(しつよう)な攻撃に手を焼いた明は、自由貿易を認めることを条件に降伏を持ちかけました。祖国からの申し出に素直に従った王直でしたが、最終的には捕らえられ処刑されてしまいます。

倭寇の様子を描いた「倭寇図巻」

「倭寇図巻(わこうずかん)」は、東京大学史料編纂所が所蔵する絵画資料です。17世紀前半に明で制作されたと推定され、倭寇の服装や武器・船の構造・戦闘の様子などが細かく描かれた貴重な資料として研究が進んでいます。

図巻には、文字がほとんどなく、詳しいストーリーは分かっていません。ただ、鉄砲が描かれていることから、後期倭寇の様子を表現したものと考えられています。

「倭寇図巻」の全体像や詳しい解説は、ネットでも閲覧できます。機会があれば、子どもと一緒にのぞいてみるとよいでしょう。

倭寇図巻デジタルアーカイブ

東アジアの海を支配した倭寇

略奪行為や密貿易を生業(なりわい)とする倭寇は、周辺諸国から恐れられ、取り締まりの対象となりました。ただし倭寇の盛衰には、日本を含む諸国の政情が大きく関わっています。

困窮の果てに外国まで食糧を奪いに行った前期倭寇も、商売の自由を求めた後期倭寇も、祖国の政策に翻弄(ほんろう)された結果、生まれたといえます。倭寇が現れた経緯(いきさつ)や周辺国の対応について詳しく知り、歴史への理解をより深めていきましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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