「生麦事件」はなぜ起きた? 幕末の国内情勢と国際関係をチェックしよう【親子で歴史を学ぶ】

江戸時代の末に起こった生麦事件は、後に外国との戦争に発展するほどの重要な出来事でした。事件や戦争が起きた背景には、当時の日本の政情が深く関わっています。生麦事件の詳細と、その後の展開について分かりやすく解説します。
<画像:『生麦之発殺』(早川松山画)>

生麦事件とは?  なぜ起きた?

「生麦事件(なまむぎじけん)」とは、どのような出来事だったのでしょうか。日時や場所、事件が起きた理由を見ていきましょう。

薩摩藩士が、イギリス人を殺傷した事件

生麦事件とは、薩摩藩(現在の鹿児島県)の藩士が、馬に乗って大名行列を横切った4人のイギリス人を殺傷した事件のことです。イギリス人1人が死亡、2人が重傷を負いました。

事件が発生したのは、1862(文久2)年8月21日(現在の暦で1862年9月14日)、場所は、東海道神奈川(かながわ)宿の東に位置する生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)です。

この日は日曜日ということもあり、イギリス人らは、横浜の居留地から川崎方面へ遊びに行く途中でした。しかし生麦村付近で、江戸方面からやってきた薩摩藩の行列に遭遇し、事件が起こってしまいます。

事件当時の生麦村 Wikimedia Commons(PD)

不平等条約が生んだ悲劇

当時の日本では、大名行列が通るときは脇によけるのがルールでした。通行を邪魔する者がいれば、藩士がその場で切り捨てても許されるほど、厳しいものだったのです。

事件当日、薩摩藩士はイギリス人一行に、馬から降りて脇によけるよう指示します。しかし一行は従わず、騎乗したまま行列に進入してしまいました。

一行が、藩士の指示を聞かなかった背景に、日本が諸外国と結んだ不平等条約があるといわれています。条約には「治外法権(ちがいほうけん)」が含まれ、外国人が日本国内で罪を犯しても、日本の法律では裁けませんでした。

そのため当時は、日本のルールを無視する外国人も多かったようです。ただし、すべての外国人がそうだったわけではありません。生麦事件に関しては、日本のルールを守ろうとしないイギリス人にも非があった、との見解を示す人もいました。

生麦事件の碑(神奈川県横浜市鶴見区)。事件の犠牲者・リチャードソンが絶命した場所に立つ。1883(明治16)年に建立され、現在の首都高速道路神奈川7号横浜北線の岸谷生麦インター近くの高架下にある。なお「横浜外人墓地」に、リチャードソンの墓がある。
生麦事件の碑(神奈川県横浜市鶴見区)。事件の犠牲者・リチャードソンが絶命した場所に立つ。1883(明治16)年に建立され、現在の首都高速道路神奈川7号横浜北線の岸谷生麦インター近くの高架下にある。なお「横浜外人墓地」に、リチャードソンの墓がある。

生麦事件の主要人物

生麦事件を起こした大名行列とイギリス人一行は、当時の日本では、どのような存在だったのでしょうか。事件の主要人物を明らかにしていきます。

島津久光

薩摩藩の行列の主は、先代藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の弟、久光(ひさみつ)です。斉彬は、西洋の技術や文化を率先して取り入れ、公武合体(こうぶがったい、朝廷と幕府が協力して政治を行う思想)を進めた人物として知られています。

しかし志半ばで亡くなり、斉彬の甥(おい)にあたる久光の息子・忠義(ただよし)が次の藩主となりました。久光は藩主の実父として藩政の実権を握り、兄の遺志を継いで公武合体の中心的な存在として活動します。

生麦事件は、久光が京都から勅使(ちょくし、天皇が遣わす使者)を伴って江戸に下り、幕政改革を実現した帰り道に起こりました。

『生麦之発殺』(早川松山画)。画中に島津久光(嶋津三郎久光公)が描き込まれている。

イギリス人の一行

薩摩藩の行列を横切ったイギリス人は、以下の4人です。

●リチャードソン:上海(シャンハイ)在留商人
●ボラデール夫人:リチャードソンの友人で、香港(ホンコン)在留商人の妻
●マーシャル:横浜在留商人で、ボラデール夫人の義弟
●クラーク:横浜在留商人

リチャードソンは、上海の商館から本国に戻る途中に、観光目的で日本を訪れていました。事件当日は、川崎大師(かわさきだいし)などを見物する予定だったと伝わっています。

彼は、切りつけられた現場から数百mほどの場所で死亡、マーシャルとクラークは重傷を負って、近くのアメリカ領事館で手当てを受けます。ボラデール夫人は軽傷で済み、横浜の外国人居留区に逃げ帰りました。

生麦事件のその後

生麦事件によって、日本とイギリスとの関係は悪化します。事件後に起こった出来事を整理していきましょう。

イギリスが賠償金を請求

ボラデール夫人の報告を聞いて、外国人居留地は騒然となります。すぐに報復すべきとの意見も出ますが、イギリスの代理公使ニールが冷静に対応します。

イギリス政府は、幕府と薩摩藩に対して正式に抗議し、幕府には賠償金10万ポンドを、薩摩藩には賠償金2万5,000ポンドと犯人の処刑を要求しました。

幕府も薩摩藩も、当初は要求をはねつけますが、イギリスは大艦隊を派遣して圧力をかけます。この時点で幕府が支払いに応じたため、イギリスは残る薩摩藩との交渉に臨むことになりました。

薩英戦争の勃発

一方の薩摩藩は、大名行列を横切る者を罰するのは当然との立場を貫きます。治外法権についても、悪いのは勝手に不平等条約を締結した幕府で、自分たちに非はないと考えていました。

イギリスは、軍艦7隻を鹿児島湾に入港させて交渉しますが、うまくいきません。そこに薩摩藩の船が、イギリスの軍艦に拿捕(だほ)される事件が起こり、怒った薩摩藩が砲撃したことで、ついに戦争が始まります。

最新式の大砲を持つイギリスを相手に、薩摩藩はよく戦います。砲撃で鹿児島城下のおよそ1/10が焼けましたが、イギリス側にも多くの死傷者が出ました。

勝敗が決まらないまま、食糧や燃料が尽きはじめたイギリス艦隊は横浜へ戻っていき、戦争は終結します。イギリスの軍事力を思い知った薩摩藩は賠償金の支払いに応じ、イギリス側も薩摩藩の戦いぶりを認めて武器供与などを約束しました。なお犯人は「行方不明」とされ、処罰された者はいません。

薩英戦争砲台跡(鹿児島県南大隅町)。イギリス艦隊の錦江湾(きんこうわん)襲来を察知した薩摩藩は、大隅半島にも防備を固めるための台場を造った(1863)。御影石の石垣は延長60mにも達したが発射する機会を得ず、その当時の原型をとどめる史跡として現存している。
薩英戦争砲台跡(鹿児島県南大隅町)。イギリス艦隊の錦江湾(きんこうわん)襲来を察知した薩摩藩は、大隅半島にも防備を固めるための台場を造った(1863)。御影石の石垣は延長60mにも達したが発射する機会を得ず、その当時の原型をとどめる史跡として現存している。

薩摩藩が倒幕へと方針転換

当時、薩摩藩には「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を主張する人もたくさんいました。尊王攘夷とは、天皇を尊び、外国人を排斥する思想です。しかし薩英戦争を通じてイギリスの強さを目の当たりにした彼らは、攘夷が非現実的であることに気付きます。

島津久光が進めていた公武合体も、将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)との関係が悪化して行き詰まってしまいました。尊王攘夷も公武合体も難しいと実感した薩摩藩は、江戸幕府を滅ぼして新しい世の中を作ろうと考えるようになります。

薩英戦争後、イギリスとの親交を深めて近代化を進めた薩摩藩は、やがて倒幕を実現して明治維新の立役者となるのです。

幕末の日本を揺るがした生麦事件

生麦事件の賠償を巡り、薩摩藩は最新兵器をそろえる強国イギリスと交戦することになります。しかしこの事件と戦争が、日本の将来を大きく変えるきっかけとなりました。

生麦事件は、なぜ防げなかったのか、もし事件が起こらなければどうなっていたのかなどと想像してみると、幕末の日本の状況をより理解できるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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