オスマン帝国は、どこにあった国?
「オスマン帝国」は、以前は「オスマン・トルコ」と呼ばれていたため、トルコにあると勘違いしがちですが、時期によって領土の変化が大きい特徴があります。どの辺りをオスマン帝国と呼ぶのか、見ていきましょう。
現在のトルコ・アナトリア地方が中心
オスマン帝国は、現在のトルコがあるアナトリア地方から始まりました。アナトリア地方はアジア大陸の最西端にあり、黒海・エーゲ海・地中海などに面した半島を指します。この地域は古くから「小アジア」と呼ばれてきました。
軍事力によって、徐々に勢力を拡大したオスマン帝国は、シリアやエジプト、イスラムの聖地であるメッカやメディナなども支配下に置きます。最盛期にはヨーロッパやアフリカにまで拡大し、広大な領土を持つ大帝国へと成長したのです。
現在は「オスマン・トルコ」とは呼ばない
オスマン帝国と聞いて、「オスマン・トルコと、どう違うの?」と思った人もいるでしょう。以前は、教科書にもオスマン・トルコと記載されていましたが、現在では「オスマン帝国」あるいは「オスマン朝」とするのが一般的です。
建国した当初は、トルコ系の民族が支配していたものの、非トルコ系の民族も多い多民族国家であったことや宗教が統一されていなかったことなどから、トルコに限定することがふさわしくないとされ、現在の呼び方になりました。
オスマン帝国の歴史
オスマン帝国は、600年以上の歴史があり、36人のスルタン(皇帝)が統治してきました。建国から崩壊まで、オスマン帝国の歴史を見ていきましょう。
1299年に建国
オスマン帝国を建国したのは、トルコ系の民族「オスマン家」です。オスマン1世は小さな部族たちをまとめあげ、アナトリア地方で1299年に建国したのち、精力的に領地を拡大し続けます。
1396年、バヤジト1世が「ニコポリスの戦い」でキリスト教諸国を破り、バルカン半島へと勢力を伸ばします。1453年にはメフメト2世が「ビザンツ帝国(東ローマ帝国)」の首都であったコンスタンティノープルを陥落させ、イスタンブールへと改称し遷都(せんと)しました。
また、オスマン帝国の歴史を知るうえで欠かせないものが、「スルタン」と「カリフ」の存在です。スルタンは政治的な支配者のことで、君主や皇帝とも表現されます。
カリフは、イスラム教の宗教的な最高権威者を指す言葉です。1517年にエジプトを支配した後、スルタンがカリフを兼務するスルタン・カリフ制が成立したとされます。
領土の拡張・世界への影響
オスマン帝国は、スレイマン1世の時代に領土を最も拡大し、アジア・アフリカ・ヨーロッパに領土を持つ大帝国へと進化しました。
1529年には、ハンガリーの支配をめぐって、オーストリアの首都ウィーンに進軍します。このことは、キリスト教世界を守ろうとするヨーロッパの危機感を煽(あお)る原因となりました。
1683年にもウィーン包囲戦を試みますが、失敗に終わります。1699年に「カルロヴィッツ条約」という講和条約が結ばれると、オスマン帝国は初めて領地を失い、ヨーロッパから後退するようになります。
徐々に衰退し、1922年にスルタン制廃止
オスマン帝国は、スレイマン1世の死後、徐々に衰退の道をたどります。1875年に、オスマン帝国の支配から逃れようとしたスラヴ系民族が反乱を起こすと、バルカン半島へ進出する機会と見たロシアが、この反乱を支援したのです。
1878年、ロシアとの戦争に敗れ、バルカン半島を失ったオスマン帝国は、ヨーロッパから「瀕死(ひんし)の病人」と呼ばれ、列強国への影響力を失いはじめました。
1914年に起きた第一次世界大戦では、ドイツ側に立って「同盟国軍」として戦いましたが、戦争に敗れて領土の多くを失い、治外法権を認めざるを得ない状態に追い込まれます。
1920年に、元軍人のムスタファ・ケマルの指導によって「トルコ革命」が起こり、オスマン帝国は終焉(しゅうえん)を迎えます。1922年にはスルタン制が廃止され、1923年に現在のトルコ(トルコ共和国)が誕生しました。
オスマン帝国の特徴と文化
オスマン帝国が発展し、広大な領土を支配できたのは、優れたシステムや文化があったためだとされています。オスマン帝国をより深く理解するために、知っておきたい特徴を見ていきましょう。
個人の能力を重視
オスマン帝国では、個人の能力を重視したシステムが採用されていました。例えば「ティマール制」を取り入れ、「シパーヒー」と呼ばれるオスマン帝国の騎士に、土地と徴税権を与えたことは有名です。
ティマール制は、武功を立てるほど多くの恩恵を得られる仕組みだったので、新たな土地と徴税権を与えるためにどんどん領土を拡大していきます。
また、14~17世紀ごろには、オスマン帝国は支配したムスリム以外の子どもたちを改宗させ、軍人や官僚として教育するために強制徴収しました。この制度は「デウシルメ」と呼ばれます。
集められた子どもの中で、体格がよい者はスルタン直属の軍隊「イェニチェリ」に、賢い者は官僚などの要職に取り立てるなどし、オスマン帝国の繁栄に貢献させたのです。
宗教・言語の自由
オスマン帝国は、支配下の民族すべてにイスラム教への改宗を迫ったわけではなく、基本的には、宗教や言語の自由がある柔軟な支配統治を行っていました。
オスマン帝国の騎士たちは、与えられた土地には住まず、バルカン半島など支配地の多くで住民たちの自治が行われたので、キリスト教徒やユダヤ教徒などの信仰や言語が侵されずに済んだのです。
ただし、デウシルメが行われたように、他民族に改宗を迫ることが全くなかったわけではありません。
壮麗な建築美術
オスマン帝国は、領土を拡大する過程で、イスラム美術・セルジューク美術だけでなく、ビザンチン美術も取り入れて発展しました。なかでも、当時の勢いが感じられる壮麗な建築美術や、タイル装飾の「イズニックタイル」などが有名です。
また、1718〜1730年ごろの美術品のモチーフには、チューリップが多く使われています。チューリップは、オスマン帝国の人々に愛された花なのです。
オスマン帝国を訪れた大使がヨーロッパに持ち帰り、品種改良が加えられたことで、現代のように多種多様な品種のチューリップが見られるようになったとされています。
オスマン帝国を代表するスルタン
オスマン帝国を発展させ、世界に影響を与えたスルタンの特徴を知ると、より深く歴史を理解できます。歴代のスルタンの中から、代表的な人物をチェックしましょう。
メフメト2世
メフメト2世は、オスマン帝国の第7代スルタンです。1444〜1446年に即位しましたが、幼かったためにいったん退位し、1451〜1481年に再び即位しました。
1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブールに遷都した「征服者」として有名です。法典を整備し、中央集権化を進めるなど、帝国の基礎となる軍事や行政を強化し、オスマン帝国を発展に導きました。
スレイマン1世
スレイマン1世は、オスマン帝国の第10代スルタンであり、英語圏では「壮麗帝」、トルコでは「立法帝」の名でも呼ばれています。歴代のスルタンの中でも最も在位期間が長く、1520〜1566年の46年も統治をしました。
在位中に13回もの遠征を行って、ハンガリーや中東の大部分、アフリカなどにも領土を獲得します。ほかにも、租税制度や州制度などを制定するなど、多くの功績を残しました。
優れた指導力を持っていただけでなく、当時の慣習を破って、奴隷(どれい)としてハレムに居住していた「ヒュッレム」を正式な妻とし、女性が権力を握る流れ(女人の天下)を作ったことでも有名です。
メフメト6世
メフメト6世は、オスマン帝国第36代スルタンであり、最後のスルタンとして知られています。在位期間は短く、1918~1922年の4年間です。
先代のスルタンである兄が亡くなり、57歳で即位したときには、すでに第一次世界大戦の戦況が不利な状態でした。すぐに敗戦が決まり、国民の不満が高まります。
ムスタファ・ケマルによる祖国解放運動によってスルタン制が廃止になり、国外へ退去しました。
現在にも名前を残す巨大帝国について知ろう
オスマン帝国は、600年以上もの歴史があり、36人のスルタンが統治してきました。最初はトルコ系民族のオスマン家が支配していましたが、長い歴史の中で領土を拡大しながら、さまざまな民族と混ざり合い、巨大な帝国となっていったのです。
アジアからヨーロッパのキリスト教世界に進出した勢力として恐れられていた時代もありましたが、列強国の干渉や民族運動などによって徐々に衰退し、崩壊を迎えます。
できごとから歴史を振り返るほかにも、大きな活躍をしたスルタンや気になる人物を掘り下げていくなどして、オスマン帝国についてより理解を深めましょう。
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構成・文/HugKum編集部