「薩長同盟」はなぜ実現した? 同盟が結ばれた目的や関連人物を知ろう【親子で歴史を学ぶ】

江戸時代に薩摩藩と長州藩の間で結ばれた同盟を薩長同盟といいます。敵対関係にあった両藩が同盟を結んだ背景には、薩摩と長州が倒幕を目指す動きがあったのです。薩長同盟が実現するまでの流れや、その後の歴史に及ぼした影響について見ていきましょう。

薩長同盟とは、どのようなもの?

「薩長同盟(さっちょうどうめい)」とは、文字通り薩摩(さつま)藩と長州(ちょうしゅう)藩の間で結ばれた同盟のことです。幕末の歴史には欠かせないできごとである薩長同盟と、その内容について解説します。

敵対していた薩摩藩と長州藩による盟約

薩長同盟とは、1866(慶応2)年に薩摩藩と長州藩の間で結ばれた盟約を指しています。

薩摩と長州はどちらも「雄藩(ゆうはん)」といわれるほど大きな影響力を持つ藩でしたが、幕府側の立場にいた薩摩は、長州とは敵対関係にあったのです。

海外の勢力を追い払おうと考える尊皇攘夷(そんのうじょうい)派であった長州は、過激な活動により幕府と敵対する立場にありました。1864(元治元)年には「第一次長州征伐」が実施されるなど、朝廷からも敵と見なされていたのです。

「第二次長州征伐」の命令が出されるなかで、薩摩は次は自分たちが幕府の標的にされるのではと考えていました。それまで幕府側の立場だった薩摩が長州と手を組んだのは、互いの利害が一致したのも大きな理由です。

薩長同盟の内容

薩長同盟の際に書かれた文書には、討幕運動のための6カ条が記されています。「幕府と長州藩の戦いが起こったら、薩摩藩から2,000人を出兵させる」など、具体的な内容が決められていました。

6カ条の中には、長州の無罪を訴えて名誉を回復することも含まれています。長州が幕府・朝廷の敵とされるのを冤罪(えんざい)と捉えて、長州の名誉を守ろうとしているのが特徴です。

各藩の中でも大きな力を持った薩摩と長州が手を結んだことは、幕府にとって大きな脅威となりました。倒幕を目的とした薩長同盟は、明治維新へとつながるきっかけにもなったのです。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」。木戸孝允(桂小五郎)が慶応2年(1866)正月に交わされた薩長同盟の内容を6項目にまとめ、その確認を坂本龍馬に求めた際に,龍馬が「内容に相違ない」と、紙面の裏に朱書で記した。(宮内庁書陵部図書課図書寮文庫)Wikimedia Commons

薩長同盟が結ばれた背景と目的

薩長同盟が締結されたのには、両藩にそれぞれの思惑がありました。薩摩藩と長州藩は、当時どのような状況にあったのか、同盟が実現した背景と両藩の目的を見ていきましょう。

薩長、それぞれの幕府との関係

尊皇攘夷運動が叫ばれていた長州藩では、海外の船を攻撃するといった過激な攘夷運動が行われていました。そのようななか、1863(文久3)年に起こった「八月十八日の政変」をきっかけに、長州は朝廷での影響力を失っていきます。

そのあとに起こった「禁門の変(きんもんのへん)」(1864年7月19日)では、京都御所(ごしょ)を攻撃したという嫌疑をかけられ、朝廷とも敵対する立場に追い込まれた長州は、ますます孤立しつつありました。こうして、長州では次第に倒幕の考えが高まっていったのです。

薩摩藩では、1863(文久3)年にイギリスとの戦争が起こったものの(薩英戦争)、その後はイギリスと友好関係を結び、貿易などで利益を得ていました。幕府が薩摩と外国の結びつきを危険視したことで、薩摩にも倒幕派が発生していきます。

互いの藩にメリットがあった

朝廷の敵と見なされた長州藩は、第一次長州征伐で降伏した後も、厳しい立場に置かれていました。国内だけでなくイギリスやアメリカ・フランス・オランダによる「四国連合艦隊」からの攻撃も行われており(馬関戦争、1864)、物資が手に入りづらくなっていたのです。

壇ノ浦砲台に並ぶ「長州砲(レプリカ)」(山口県下関市)。四国連合艦隊が襲来・上陸した際に、大砲54門が戦利品として各国へ持ち帰られた。現在も、パリのアンバリッド軍事博物館に展示されている。なお、貸与された大砲1門が下関市立歴史博物館にある。

薩長同盟によって、長州は薩摩藩を通して武器や船などを入手できるようになります。おかげで長州は、第二次長州征伐で幕府軍と戦うことが可能となりました。

一方、薩摩は幕府側として第一次長州征伐に参加しましたが、戦争のために多くの費用がかかることを懸念(けねん)していました。薩長同盟を結ぶことで、長州征伐への参加を回避できるため、倒幕を進めたい薩摩にとってもメリットがあったのです。

薩長同盟に関わった人物

薩長同盟の実現には、両藩を結びつけるために活躍した人物がいます。同盟の締結に大きな役割を果たした、重要人物をチェックしましょう。

仲介役は、土佐藩の坂本龍馬ら

薩長同盟締結のために両藩の仲介役となったのが、土佐藩を脱藩した坂本龍馬(さかもとりょうま)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)です。龍馬と中岡は、薩長両藩の中心人物たちを説得しました。

龍馬は、後に「海援隊(かいえんたい)」と呼ばれる組織・亀山社中(かめやましゃちゅう)を結成して、貿易を行っていました。そのため海外の商人から薩摩の名義で兵器や船を仕入れて、それを長州に受け渡す役割を担ったのです。

また米が不足していた薩摩には、長州の米を送りました。龍馬と中岡の仲介もあり、薩摩と長州は互いに不足しているものを入手できたのです。

薩長同盟が成立。左から西郷隆盛、坂本龍馬、桂小五郎(イメージ)

薩長のリーダー的存在が出席

坂本龍馬らが説得したのは薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)、そして長州藩の桂小五郎(かつらこごろう)の二人です。

長州の中心的存在だった桂は、幕府と長州が対立したことから、身を隠すため名前を木戸孝允(きどたかよし)と改めました。木戸は龍馬らの協力を得て薩摩と接近し、長州を守るために貢献した人物です。

同じく薩摩の中心であった西郷は、第一次長州征伐に幕府軍の参謀役として参加していました。薩長同盟を結んでからは、倒幕派のリーダーとして活躍したことでも有名です。

この二人に大久保利通(おおくぼとしみち)を加えて、「明治維新の三傑」と呼ばれています。また、薩長同盟には木戸と西郷だけでなく、薩摩の小松帯刀(こまつたてわき)なども同席していたことも覚えておきましょう。

小松帯刀像(鹿児島市)。帯刀は、薩摩藩家老として島津久光(しまづひさみつ)の藩政改革を助け、寺田屋事件・生麦事件などの難局を乗り切り、また西郷・大久保・龍馬などを陰で支え続けた。龍馬立ち合いのもと薩長同盟を成立させたのは、京都の「小松邸」である。

薩長同盟が結ばれたことによる影響

薩長同盟が締結されたことは、その後の江戸幕府に大きな影響を与えました。薩長同盟が、歴史にどのような影響を及ぼしたのかを見ていきましょう。

明治維新を引き起こすきっかけに

薩長同盟が実現した1866(慶応2)年7月に、幕府軍は第二次長州征伐を開始しました。しかし同盟を結んだ薩摩藩は参戦しなかったことと、長州藩が武器をそろえていたこともあって、幕府軍は苦戦を強いられます。

幕府の思うように長州征伐が進まないなかで、14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が病気により逝去します。後に15代将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)が第二次長州征伐の中止を決断したのは、家茂の死も原因の一つでした。

1867(慶応3)年に、慶喜は「大政奉還(たいせいほうかん)」を行い、江戸幕府は滅亡します。つまり薩長同盟の締結は、明治維新のきっかけになったとも考えられるです。

江戸幕府の終焉につながった薩長同盟

過激な尊皇攘夷運動を行っていた長州藩は、幕府と外国を敵に回し、さらに禁門の変などで朝敵とされて孤立した立場にありました。そのような状況の長州と、幕府側であった薩摩藩が同盟を締結したのは、互いの利害が一致していたのが理由です。

薩長同盟締結の中心であった木戸孝允や西郷隆盛は、明治維新でも大きな役割を果たしました。薩長同盟の実現は、幕末の歴史の中でも大きな意義を持ったできごとだったといえるでしょう。

こちらの記事もおすすめ

大政奉還を分かりやすく解説。時代背景から、起こった後の影響まで【親子で歴史を学ぶ】
大政奉還とは? 「大政奉還(たいせいほうかん)」は日本史の授業で習いますが、詳しい内容までは覚えていない人も多いでしょう。大政奉還の言葉の...

構成・文/HugKum編集部

編集部おすすめ

関連記事