「淀殿」は本当に悪女だったのか? その生涯を知り人物像を深堀りしよう【親子で歴史を学ぶ】

淀殿は、豊臣秀吉の側室となって、世継ぎを産んだ女性として知られています。映像作品や小説では悪女として描かれることもありますが、その理由はどこにあるのでしょうか。淀殿が本当はどのような女性だったのか、歴史的事実と共に解説します。

淀殿とはどんな人物だったのか

淀殿(よどどの)は、戦乱の世に生まれ、歴史上の出来事に深く関わりを持つ女性です。どのような人物だったのか、簡単に見ていきましょう。

戦国時代に壮絶な人生を歩んだ女性

淀殿の本名は、茶々(ちゃちゃ)といいます。1589(天正17)年に、茶々が身ごもったことに喜んだ豊臣秀吉から、「淀城」を与えられたため、淀殿淀君などと呼ばれました。

淀殿は戦国時代の中でも、波乱万丈な人生を送った女性として知られます。二度の落城を経験後、豊臣秀吉の側室となって世継ぎを産みますが、その豊臣家もすぐに滅んでしまうのです。

世継ぎの母として、一時は正室よりも大きな力を持っていたとされる淀殿は、後世悪女として伝えられることにもなりました。

伝淀君像(模写)[原本・京都府養源院所蔵] 東京大学史料編纂所, Wikimedia Commons(PD)

淀殿の生涯を知ろう

ある戦国武将の家に生まれた淀殿は、戦乱の世の中でさまざまな別れと出会いを経験します。淀殿の生涯を、時系列に沿って見ていきましょう。

誕生と1度目の落城

淀殿の父親は、現在の滋賀県長浜市にあった「小谷城(おだにじょう)」の城主・浅井長政(あさいながまさ)です。長政は織田信長と同盟するために信長の妹・お市を妻に迎えました。

淀殿の父・浅井長政像[高野山持明院蔵], Wikimedia Commons(PD)

淀殿は、その長政とお市の間に生まれた三姉妹の長女です。次女は初(はつ)、三女は江(ごう)といいます。1573(天正1)年、長政が信長と敵対したために、織田軍の攻撃を受けて小谷城が落ち、父や祖父らも亡くなります。

お市と三姉妹は城を脱出し、信長に保護されました。淀殿の生年は1567(永禄10)年や、1569(永禄12)年などの説があり、はっきりと分かっていません。いずれにしても、落城時は10歳にも満たない小さな子どもでした。

2度目の落城

1582(天正10)年の本能寺の変で信長が亡くなると、お市は信長の重臣・柴田勝家と再婚します。三姉妹も、勝家の居住地・越前国(現在の福井県北部)の「北の庄(きたのしょう)城」で暮らすことになりました。

しかしその生活も、長くは続きません。織田家の後継者を巡って豊臣秀吉と対立した勝家は、1583(天正11)年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、秀吉に敗れてしまいます。

このとき、お市は勝家とともに自害する道を選び、三姉妹は2度目の落城を経験することになってしまったのです。

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豊臣秀吉の側室に

後ろ盾を失った三姉妹は、敵だった秀吉に保護されます。淀殿は1588(天正16)年ごろに秀吉の側室になり、妹たちはそれぞれ他の武将のもとへと嫁いでいきました。

太閤五妻洛東遊観之図(喜多川歌麿)[ボストン美術館所蔵] 豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵で、中央の秀吉の左に描かれているのが淀殿。Wikimedia Commons(PD)

1589(天正17)年に、淀殿は鶴松(つるまつ)という名の男児を出産しましたが、早くに亡くなってしまいます。世継ぎとなる秀頼は、1593(文禄2)年に誕生しました。

秀吉は他の女性との間には子宝に恵まれなかったので、たいそう喜んでかわいがったとされます。しかし、その秀吉も1598(慶長3)年に幼い秀頼を残して他界しました。

3度目の落城と最期

秀吉が亡くなると、淀殿は幼い秀頼とともに大坂城へ移り、秀頼の後見人として豊臣家を動かす存在となります。しかし秀吉に代わって天下人になった徳川家康に、徐々に追い詰められていきました。

1600(慶長5)年の「関ヶ原の戦い」で家康が勝利すると、豊臣家の地位は低下し、大名家の一つに過ぎなくなります。江戸に幕府を開いた家康は豊臣家に臣従を求めますが、淀殿は受け入れず、家康と敵対します。

その後、1614(慶長19)年と、1615(慶長20)年の「大坂の陣」によって大坂城は落城し、淀殿は城と共にその生涯に幕を閉じるのです。

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淀殿はなぜ悪女といわれていたのか

『傳 淀殿畫像』[奈良県立美術館収蔵 ]Wikimedia Commons(PD)

淀殿は、後世に創作された作品の中で悪女として描かれることが多く、さまざまな悪評を流されてきた人物としても知られています。悪女とされるようになった理由を見ていきましょう。

多くの作品に悪女として登場

大坂の陣をテーマにした、江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎狂言の脚本には、淀殿を「大淫好色、恥を知らざる婦人」と表現したものがあります。

同じく江戸時代に人気のあった「絵本太閤記」では、淀殿が蛇になる描写があり、まるで妖怪のように扱われています。

徳川家は豊臣家を攻め滅ぼした後に、政治の実権を握って繁栄していきました。後世の人々に徳川家の正当性を誇示するために都合がよかったので、淀殿を悪女とする話が広まっていったとも考えられます。

豊臣家滅亡は淀殿が原因?

淀殿は秀吉の死後、秀頼の後見人として政治に介入するようになります。最初の子どもを早くに亡くしたこともあり、淀殿はたったひとりの世継ぎである秀頼が成長するまで、何としても豊臣家を守らなければなりませんでした。

政治に介入したのも、母としての気持ちが強く働いた部分があったと考えられます。しかし淀殿を始め側近たちは、政治に明るくない者ばかりだったので、うまく立ち回れなかったとされます。

淀殿が悪女とされるようになった理由は、豊臣家の滅亡に納得できない家臣たちの心情も関係していたかもしれません。滅亡の原因を誰かに転嫁したい心理が働き、「淀殿が悪女だったせいで豊臣家が没落したのだ」と思うことで、溜飲を下げようとしていた可能性があります。

大阪城天守閣

戦国時代を生き抜いた淀殿

淀殿は父が浅井長政、伯父が織田信長という戦国武将の家に生まれました。子どもの頃に二度落城を経験し、父や母とも死別する波乱万丈な人生を歩みます。

さらには、自分の家を攻め滅ぼした敵・豊臣秀吉の側室になって、生き延びなければなりませんでした。最終的には江戸幕府を開いた徳川家康と、真っ向から戦うことにもなります。

悪女として描かれることも多い淀殿ですが、たったひとりの息子を守ろうとした、愛情深い母親だったと見ることもできます。淀殿の生涯について深く考えると、戦国時代の様子や当時の出来事への理解を深めるきっかけになるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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