大阪のランドマーク「大阪城」とは?
大阪城は、大阪を代表する観光スポットの一つです。大阪のランドマークでもあり、地元の人々からは「太閤さんのお城」として親しまれています。大阪城には、どのような魅力や見どころがあるのでしょうか?
まずは、基本情報からチェックしましょう。
大阪城公園の中心部に位置
大阪城は、大阪府大阪市中央区にある「大阪城公園」の中心部に位置します。
大阪城公園は、1931(昭和6)年に開園した都市公園です。105.6haの広大な園内には、野外音楽堂や野球場、弓道場などの施設が設置されているほか、梅林や西の丸庭園などの緑豊かな場所もあります。
本丸にある大阪城天守閣は、展望台と歴史博物館を兼ねた施設です。園内は自由に出入りができますが、天守閣に入るには入場料が必要です(中学生以下は無料)。8階の展望台からは大阪市内が一望できるため、観光客に人気のスポットとなっています。
参考:特別史跡 大阪城公園
13棟の重要文化財を有する
大阪城跡は、国の特別史跡です。特別史跡とは、史跡の中でも歴史的・学術的価値が高いものを指します。
大阪城跡のうち、以下の13棟が国の重要文化財に指定されています。これらは全て江戸時代に建てられました。
●大手門
●大手門南方塀(おおてもんなんぽうべい)
●大手門北方塀(おおてもんほっぽうべい)
●多聞櫓(たもんやぐら)
●多聞櫓北方塀
●千貫櫓(せんがんやぐら)
●乾櫓(いぬいやぐら)
●焔硝蔵(えんしょうぐら)
●六番櫓
●一番櫓
●桜門
●金蔵(きんぞう)
●金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)
天守閣は、保存・活用の措置が特に必要とされる「登録有形文化財」に指定されています。
大阪城築城の背景と歴史
「太閤さんのお城」の太閤さんとは、織田信長の死後に全国統一を果たした豊臣秀吉を指します。大阪城が築城された背景と歴史の変遷を見ていきましょう。
大阪は、近世まで「大坂」と表記されていましたが、1872(明治5)年頃から「大阪」の表記が使われるようになりました。ここでは「大阪城」で統一しています。
豊臣秀吉が寺の跡地に築城
大阪城は、浄土真宗の本山「石山本願寺」があった場所に建てられた城です。
石山本願寺のある上町台地(うえまちだいち)は、陸・海からの利便性がよく、信長は天下統一の拠点として目を付けました。しかし本願寺派の僧侶の反発に遭い、約11年間にもわたって「石山合戦」が繰り広げられます。
信長は戦いに勝利するものの、1582(天正10)年に起きた「本能寺の変」で暗殺されます。死去後は、信長の遺志を継ぐ豊臣秀吉が大阪城の築城を始めました。
築城を指揮したのは、軍師・黒田官兵衛です。堅牢な石垣や二重三重の堀が築かれ、「戦いに強い城」が完成します。
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徳川幕府による再建と天守閣の焼失
秀吉の死後は息子の秀頼が城主となるものの、「大坂の陣」によって滅亡に追い込まれます。大坂の陣は、江戸に幕府を開いた徳川軍と豊臣家の対立です。
大阪は幕府の直轄地となり、大阪城の再建が開始されました。1959(昭和34)年の調査では、豊臣時代の大阪城の上に徳川時代の大阪城が建設されたことが分かっています。
再建後は落雷によって天守閣が焼失し、江戸末期には火事で建物の大半を失います。昭和に復興工事がなされるまでの約266年間、大阪城は天守閣がない状態でした。
戦後復興を経て大阪のシンボルへ
明治時代に入ると、大阪城の跡地は陸軍軍用地として活用されます。本丸はもちろん、二の丸にも軍事関係の建物が建設され、市民は出入りができませんでした。
日本が戦争への道を歩む中、当時の大阪市長であった関一(せきはじめ)は、天守閣復興を提案します。不況下にもかかわらず市民から多くの寄付が集まり、1931(昭和6)年に3代目の天守閣が竣工しました。
第2次世界大戦に突入すると、大阪城は空襲によって多くの櫓を失いましたが、官民一体の復興事業によって息を吹き返し、現在に至ります。
大阪城の特徴と見どころ
現在の大阪城は、豊臣時代と徳川時代の融合です。天守閣は豊臣時代を再現したものですが、重要文化財として現存している建築物や石垣は、徳川時代に築かれました。城の特徴と見どころを解説します。
街を一望できる天守閣
現在の天守閣は、「大坂夏の陣図屏風」などを拠りどころに、豊臣時代の天守閣を再現したものです。鉄骨鉄筋コンクリート造りの外部5層・内部8層で、地上55mの高さを誇ります。
天守閣を彩る金箔押しの伏虎(ふくこ)や鯱(しゃち)、高欄錺金物(こうらんかざりかなもの)からは、過去の栄華が想像できるでしょう。8階の展望台から街を見下ろせば、天下統一を成し遂げた秀吉の気分が味わえるかもしれません。
最上層の回廊は黒が基調なので、白漆喰の壁や黄金の装飾品の美しさが際立って見えます。
巨石を使った堅固な石垣
城を守るのは、巨石を使った堅固な石垣です。現存する石垣は徳川幕府が築いたもので、当時における最高の土木技術が採用されました。
石垣に使われたのは花崗岩(かこうがん)の切石です。石は近隣の山や九州の採石場から運ばれたようですが、人の手で運んだとは思えないほど巨大な石が使われています。
本丸の正門から正面に見える「蛸石(たこいし)」は、城の石としては日本最大級で、高さ約5.5m、幅約11.7m、重さは約108tです。石垣には、建造に携わった大名の紋章が刻まれています。
多聞櫓・千貫櫓・乾櫓
大阪城には複数の櫓がありますが、一般公開されているのは多聞櫓・千貫櫓・乾櫓です。櫓とは屋敷の防御や敵の監視、武器・食料の収蔵に使われた建物で、かつては「矢倉」の漢字が当てられていました。
多聞櫓の「多聞」は、戦国武将・松永久秀(まつながひさひで)が奈良に築いた「多聞城」に由来します。大門のある渡櫓(わたりやぐら)と、南に伸びる続櫓(つづきやぐら)から成る建物です。
大手門を北から防御する千貫櫓は、2層の隅櫓(すみやぐら)です。一説では、この付近にあった櫓を攻めあぐねた信長軍が「千貫文を出しても奪いたい」と語ったとされています。千貫とは、一貫の1,000倍を意味する銭の単位です。
乾櫓は、西の丸の西北を守る隅櫓です。多聞櫓・千貫櫓は例年公開されていますが、乾櫓は2024年に9年ぶりに公開されました。
大阪城で楽しめる家族向けアクティビティ
大阪城は、楽しみながら歴史を学びたい人にぴったりの観光スポットです。家族みんなで楽しめるアクティビティを二つ紹介します。
大阪城御座船でお堀巡り
大阪城御座船は、天守閣の北に位置する極楽橋(西側)から毎日運航しています。
大阪城の内堀を約20分かけて巡るツアーで、石垣に刻まれた大名の紋章や魔よけのために石垣に埋められた人面石などを、間近で見られるのが魅力です。
御座船の外観は、「豊臣期大坂図屏風」に描かれていた「鳳凰丸(ほうおうまる)」を参考にしています。本物の金箔がふんだんに使われており、天下人の気分を味わえるでしょう。船内では、大阪城にまつわる詳しい説明を聞くことができます。
兜・陣羽織試着体験
天守閣の内部は、エレベーター付きの博物館として一般公開されています。秀吉ゆかりの品々を見て回った後は、「兜・陣羽織試着体験」に参加してみましょう。戦国武将が愛用していた兜や陣羽織を試着して、写真撮影ができます。
秀吉は戦いの際、馬藺後立付兜(ばりんうしろだてつきかぶと)と呼ばれる兜を身に着けました。29本の後立(うしろだて)は、ショウブ(菖蒲)の一種である馬藺の葉を模したものです。
そのほか、真田幸村の「鹿角脇立付兜(かづのわきだてつきかぶと)」や加藤清正の「蛇目紋長烏帽子形兜(じゃのめもんながえぼしなりかぶと)」、黒田官兵衛の「赤合子形兜(あかごうすなりかぶと)」などが用意されています。
大阪城の歴史と魅力を堪能しよう
大阪城は豊臣秀吉によって築城され、徳川幕府の手に渡りました。現存する史跡は徳川時代に築かれたもので、大手門や櫓などは国の重要文化財に指定されています。
豊臣時代の栄華を物語る遺構は残っていないものの、天守閣に一歩足を踏み入れれば、天下人となった秀吉の生涯や戦国時代の資料に触れられます。見どころが多く、家族みんなで楽しめるアクティビティも充実しているため、休みの日に足を運んでみてもよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部