石山本願寺ってどんな寺? 織田信長との確執の原因もチェック【親子で歴史を学ぶ】

石山本願寺は、戦国時代に織田信長と激しく争ったことで有名です。なぜ寺院が戦国武将と戦ったのか、現在はどうなっているのかなど、気になる人も多いのではないでしょうか。石山本願寺の歴史や合戦の経緯を、分かりやすく解説します。

石山本願寺とは?

「石山本願寺(いしやまほんがんじ)」は、どのような寺院だったのでしょうか。所在地や規模など、基本情報を紹介します。

かつて大阪にあった寺

石山本願寺は、大阪に存在した浄土真宗本願寺派の総本山です。当時は「大坂本願寺」や「石山御坊(ごぼう)」などと呼ばれていました。現在の大阪城公園辺りにあったと考えられており、園内には石山本願寺の推定地とする石碑があります。

大阪城公園「石山本願寺推定地」(大阪市中央区)。歴史上、初めて「大坂」という地名が見られるのは、1498(明応7)年に蓮如(れんにょ)が書いた「御文(おふみ)」である。その前年に、総石垣の扉御門を持つ寺院が完成し、最も美しい御坊だと記録している。
大阪城公園「石山本願寺推定地」(大阪市中央区)。歴史上、初めて「大坂」という地名が見られるのは、1498(明応7)年に蓮如(れんにょ)が書いた「御文(おふみ)」である。その前年に、総石垣の扉御門を持つ寺院が完成し、最も美しい御坊だと記録している。

石山本願寺の周りには、大きな「寺内町(じないまち)」がありました。寺内町とは、浄土真宗の寺院を中心に形成された「都市」のことです。

石山本願寺は規模が大きく、寺内町は経済の中心地としても機能していました。今の大阪の街は、石山本願寺を元につくられたともいわれています。

石山本願寺の歴史

石山本願寺が、織田信長と敵対するに至る経緯とは?

石山本願寺が、織田信長(おだのぶなが)との合戦にいたるまでには、さまざまな経緯(いきさつ)がありました。建立から消滅までの歴史を見ていきましょう。

1496(明応5)年に蓮如が建立

石山本願寺は、1496年に、第8代門主・蓮如(れんにょ)によって建立されます。当時、本願寺派の総本山は京都の山中にあり、布教にはやや不便でした。

蓮如は水陸ともに交通の便がよく、人や物資が集まりやすい大坂(現在の大阪)に着目します。すでに息子に門主の座を譲っていた蓮如は、引退後の居所として大坂に寺院を建てることにしました。

一方、蓮如の後継者の実如(じつにょ)は、1493(明応2)年に起こった「明応の政変」の際に、室町幕府から参戦要請を受けます。これを機に本願寺派は「一向一揆(いっこういっき)」と呼ばれる武装集団となり、政治的影響力を増していきました。

本願寺の城郭化・最盛期

石山本願寺が総本山となったのは、第10代門主・証如(しょうにょ)の時代です。1532(天文元)年、京都の山科(やましな)にあった総本山が日蓮宗(にちれんしゅう)の焼き討ちにあったため、証如は総本山を大坂石山に移しました。

同時に、石山本願寺は、本格的に防衛力強化に取り組みます。寺院の周囲に堀や土塁(どるい)がつくられ、その周囲を寺内町が囲む様子は、まるで城塞(じょうさい)のようでした。

第11代門主・顕如(けんにょ)の代になると、石山本願寺は最盛期を迎えます。左大臣の娘と結婚した顕如は、公家(くげ)や有力大名と強く結びつき、有力大名並みの力を持つようになりました。

三好三人衆への肩入れから本願寺が蜂起

1570(元亀元)年9月、本願寺は織田信長軍に向けて蜂起(ほうき)します。このとき信長は敵対する「三好三人衆(みよしさんにんしゅう)」と戦うために、本願寺の近くに陣を敷いていました。

その2年前、信長は足利義昭(あしかがよしあき)とともに上洛(じょうらく)しています。義昭を室町幕府第15代将軍にして、自らは天下に号令を下す立場となりました。

信長は戦費として各寺院に課税し、応じない場合は取り潰すと通達します。石山本願寺も例外ではなく、顕如は仕方なく信長の要求に応じていました。

こうしたことへの反発もあり、顕如は三好三人衆に味方して、信長と戦うことを決めたと考えられています。一方の信長は、本願寺が攻撃してくるとは予想しておらず、報せを聞いて大変驚いたそうです。

10年にわたる合戦の後、石山本願寺が降伏

以降、本願寺は、およそ10年にわたって信長と戦い続けます。ただし途中で二度、和睦(わぼく)したこともありました。一度目の和睦は、信長が浅井(あざい)・朝倉両家を滅亡させた1573(天正元)年に成立しています。本願寺は両家を頼りにしていたため、滅亡によって形勢が不利となったのです。

和睦直後の1574(天正2)年、越前(現在の福井県)の一向一揆を機に、本願寺は再び信長に戦いを挑みます。同じ年には伊勢長島(いせながしま、現在の三重県桑名市)でも大規模な一向一揆が起こりました。

しかし、いずれも信長によってせん滅され、1575(天正3)年に二度目の和睦が成立します。その後も、本願寺は信長への抵抗を続けますが、1580(天正8)年、ついに力尽きます。信長は加賀(現在の石川県)にある本願寺の領地を返すことを条件に、和睦に応じました。

このとき、信長は石山本願寺を解体せず、教団の存続も許可しています。しかし明け渡しの直後、原因不明の出火で建物はすべて焼失してしまいました。

黄金の織田信長像(岐阜市)。岐阜駅前に聳え立つこの銅像は、各地に数ある信長像の中で唯一の黄金色。「井の口」と呼ばれていたこの地を「岐阜」と名付けたのも信長。マントを羽織り、左に西洋兜を抱え、右手に火縄銃を持つ。
黄金の織田信長像(岐阜市)。岐阜駅前に聳え立つこの銅像は、各地に数ある信長像の中で唯一の黄金色。「井の口」と呼ばれていたこの地を「岐阜」と名付けたのも信長。マントを羽織り、左に西洋兜を抱え、右手に火縄銃を持つ。

石山本願寺と関係の深い人物

石山本願寺を語るうえで外せない人物といえば、織田信長と顕如です。それぞれの人物像を紹介します。

織田信長

織田信長は、尾張(おわり、現在の愛知県西部)の一部を治める弱小大名の身分から、天下統一目前までいった下剋上(げこくじょう)を代表する人物です。1560(永禄3)年5月に「桶狭間(おけはざま)の戦い」で強大な敵・今川義元(いまがわよしもと)を破り、一躍有名になりました。

尾張の隣国・美濃(みの、現在の岐阜県)を攻略後は、本格的に天下統一を目指して突き進みます。上洛後の信長は、寺院への金銭要求や比叡山(ひえいざん)の焼き討ちなど、宗教勢力を敵に回すような行動を取っています。

そのため、本願寺との戦いも、信長から仕掛けたものと考えられていました。しかし、信長は本願寺と三度も和睦したうえに、教団の存続も許すなど寛容な対応をしています。

信長には本願寺を滅ぼす気などなく、歯向かってきたから戦っただけという説もあり、本当のところは分かっていません。

▼織田信長についてはこちら

天下統一を目指した「織田信長」ってどんな人? 事件や名言も紹介【親子で歴史を学ぶ】
織田信長はどんな人物だった? 戦国時代とは、応仁の乱が起こった1467年から徳川家康が江戸幕府を開く1603年までのおよそ140年間を指す...

顕如上人

顕如は、信長とおよそ10年の戦いを繰り広げた、本願寺の第11代門主です。僧侶として布教に努める一方で、戦乱から浄土真宗の教えや門徒を守るために奔走しました。

特に信長と対立してからは、他の大名や門徒衆と連携して執拗(しつよう)に戦い続け、約10年間も持ちこたえます。まさに戦国大名顔負けの武勇・知略・統率力を備えていた、といっても過言ではありません。

三度目の和睦では、いさぎよく石山本願寺を退去して紀州(現在の和歌山県)に移っています(1580)。そのとき、息子の教如(きょうにょ)が徹底抗戦を主張して籠城(ろうじょう)したために不仲となり、本願寺が東西に分かれる原因となったといわれています。

東本願寺「御影堂(ごえいどう)」(京都市下京区)。教如は秀吉に退隠させられるが、1602(慶長7)年に家康から烏丸六条の寺地を寄進され、本願寺第12代に就任する。このときから本願寺は東西に分立。御影堂は1604年落成も4度焼失し、1895(明治28)年の再建。
東本願寺「御影堂(ごえいどう)」(京都市下京区)。教如は秀吉に退隠させられるが、1602(慶長7)年に家康から烏丸六条の寺地を寄進され、本願寺第12代に就任する。このときから本願寺は東西に分立。御影堂は1604年落成も4度焼失し、1895(明治28)年の再建。

今は残らない寺の歴史を知ろう

石山本願寺は、戦国時代に大きな勢力を誇った寺院です。強い武将を相手に何年も戦えるだけの武力や資金力があり、門徒の団結も強固でした。

残念ながら建物はすべて焼失し、跡地付近には大坂城が建てられたために、当時の様子はよく分かっていません。発掘調査や文献の研究が進み、新しい情報が見つかる日を楽しみに待ちましょう。

こちらの記事もチェック!

安土城はどんな城だった? 織田信長の夢が詰まった幻の城の特徴を解説
織田信長が建てた「安土城」とは 織田信長は「安土城(あづちじょう)」を、いつ頃、どのような目的で建てたのでしょうか。築城から廃城までの歴史...

構成・文/HugKum編集部

編集部おすすめ

関連記事