安土城はどんな城だった? 織田信長の夢が詰まった幻の城の特徴を解説

安土城は、天下統一を目前にした織田信長が建てた城です。完成当時は、主を象徴するかのような、壮大な様子が話題を呼びました。城跡では現在も発掘・研究が進み、訪れる歴史ファンを楽しませています。安土城の歴史や特徴、見学のポイントを解説します。<上画像は安土城跡(滋賀県近江八幡市)>

織田信長が建てた「安土城」とは

織田信長は「安土城(あづちじょう)」を、いつ頃、どのような目的で建てたのでしょうか。築城から廃城までの歴史と、安土城にまつわるエピソードを紹介します。

築城から10年で失われた幻の城

1573(元亀4)年、足利義昭(あしかがよしあき)を京都から追放して政治の実権を握った信長は、それまで住んでいた岐阜(ぎふ)城から、より京都に近い琵琶湖(びわこ)東岸の安土へ移転する計画をたてます。

安土山(滋賀県近江八幡市)。標高199mの安土山山上に「安土城」があった。400年以上を経た現在も、今でも残る石垣や礎石などが往時を偲ばせてくれる。普請を手掛けた石垣職人集団・穴太衆(あのうしゅう)は、その後、全国的に城の石垣普請に携わっている。

 

安土は、京都から北陸、東海方面へ向かう街道の要所にあり、琵琶湖の水運も利用できる便利な場所でした。築城工事は1576(天正4)年に開始され、3年後の1579年に、ようやく全体が完成します。

ところが、完成から3年後の1582(天正10)年に「本能寺の変」が起こり、信長は帰らぬ人となりました。安土城には明智光秀の軍勢が入りますが、すぐに豊臣秀吉に敗れてしまいます。

天主(天守)閣と本丸御殿は、このときに焼失しています。残った建物は、1585(天正13)年に秀吉が近所に建てた新しい城に移築され、築城からおよそ10年で、安土城は廃城となりました。

日本初のライトアップ・イベントが開催された

安土城は、日本で初めて大規模なライトアップ・イベントが開かれた城でもあります。イベントは、イタリアへ帰国する宣教師をもてなすために、信長が企画したと伝わっています。

その夜、城の主な建物にはたくさんの提灯(ちょうちん)が吊るされ、城へ通じる道には松明(たいまつ)を持った騎馬武者が並びました。琵琶湖の入り江にも、松明をのせた舟が浮かびます。

城下の家は、灯りをすべて消すようにあらかじめ指示されていました。真っ暗闇のなか、提灯や松明に一斉に火が灯る様子は、言葉にできないほど幻想的だったといわれています。

当日は、城下に住む一般の人々も大勢見学に訪れて、信長の粋なパフォーマンスに酔いしれました。

安土城の特徴

安土城には、従来の城の常識におさまらない、織田信長オリジナルのアイデアがたくさん見られます。天下統一を控えた信長は、安土城にどのような役割を持たせたのでしょうか。

高くそびえる豪華な天主閣(天守閣)

戦国時代の城は、軍事施設の要素が強く、装飾性は求められていませんでした。

しかし、信長は安土城に前代未聞の豪華な天主閣を建てます。地上6階、地下1階の計7階建ての高層建築で、最上階の壁は金、5階は朱で塗られていました。

小高い山の上に燦然(さんぜん)と輝く黄金の天主閣を見上げれば、否が応でも信長の強大さを実感します。信長にとって、城は軍事施設ではなく、権力を示すための建物だったのです。

安土城をきっかけに、城の役割は大きく変わります。以後、時代が平和になるにつれて、デザイン性や居住性を重視した美しい城が増えていきました。

※家臣・太田牛一(おおだぎゅういち)が残した「信長公記(しんちょうこうき)」にて「天守閣」は「天主閣」と表記されていたことから、安土城では「天主閣」を用いている。

有名な家臣が邸宅を構える

近年の発掘調査により、安土山のふもとから天主閣に向かう大手道の両側には、信長の重臣や一族の屋敷があったことがわかっています。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)・前田利家・徳川家康などの有名武将が名を連ねるほか、側近の森蘭丸(もりらんまる)や武井夕庵(たけいせきあん)、信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)の屋敷もありました。

家臣の屋敷は、天主閣の信長を守るために建てられたと考えられています。屋敷跡からは生活の痕跡を示す土器や陶磁器が出土しており、後に天下を取る秀吉や家康が、どのような思いで安土に引っ越してきたのかを想像するだけでも、十分楽しめそうです。

本格的な寺院や天皇の間も

信長は安土城内に、自らの菩提寺(ぼだいじ)として、本格的な寺院「摠見寺(そうけんじ)」を建立しています。摠見寺は城下町から天主閣へ向かう途中にあり、信長に会うためには必ず境内を通らなければなりませんでした。

寺は、安土城が廃城となった後も残されましたが、江戸時代の末期に、主要な建物が焼失してしまいます。その後は徳川家康の屋敷跡に移転して、現在に至っています。

摠見寺「二王門」(滋賀県近江八幡市)。城郭遺構は安土山全体に分布しているが、当時の建築物としては、二王門と三重塔が、中腹に位置する摠見寺境内に残るのみである。この二王門は甲賀の柏木神社から移築されたもので、金剛力士像とともに国の重要文化財。

 

また安土城の本丸御殿は、発掘調査で天皇の住まい「清涼殿(せいりょうでん)」と似ていたことが明らかになりました。信長の家臣・太田牛一が書いた「信長公記」にも、本丸御殿に天皇を招待するための「御幸(みゆき)の間」があったと書かれています。

寺院や天皇の部屋まで揃った安土城は、他の城とは、一線を画す個性的な城といえるでしょう。

安土城跡の見どころ

安土城のあった場所には、現在も石垣や石段が残っており、当時の様子を想像しながら散策を楽しめます。

周辺には資料館や博物館があり、安土城や織田信長について詳しく学ぶことも可能です。安土城跡と、周辺施設の見どころを紹介します。

安土城郭資料館

安土城郭資料館は、JR琵琶湖線の安土駅南広場にある小さな建物です。地図やパンフレットなどの観光資料を入手できるので、最初に立ち寄るとよいでしょう。

館内には、実物の1/20の大きさで再現した安土城天主閣の模型や、天主閣に飾ってあった屛風絵風(びょうぶえふう)の壁画が展示されています。

模型は縦二つに分かれていて、内部の様子もよく分かります。信長関連グッズの売店やカフェコーナーもあり、休憩スポットとしてもおすすめです。

安土城郭資料館

城跡の散策

安土城跡は、急げば45分、ゆっくり歩けば90分ほどで一周できます。まずは家臣の屋敷跡を見ながら、天主台を目指して大手道をひたすら登っていきましょう。

安土城「大手道」(滋賀県近江八幡市)。南山麓から本丸へ続く大手道。通常、城内の道というものは、敵の侵入を阻むべく、細く曲がりくねって造られる。だが、安土城の大手道は幅6mの広さで、直線が約180mも続く。信長は、軍事拠点ではなく政治の場にしたかった?

 

織田信忠の屋敷跡を過ぎると、城中心部への入り口「黒金門(くろがねもん)」跡が現れます。門を通ってすぐの二の丸跡には、信長のお墓があります。

信長の遺体は見つかっていませんが、代わりに羽柴秀吉が刀や直垂(ひたたれ)を埋葬したそうです。

天主台に着いたら、信長になりきって目の前に広がる琵琶湖の風景を眺めましょう。帰りは信忠の屋敷跡を右に進み、摠見寺跡に向かいます。

ここには焼失を免れた二王門と三重塔が、当時の姿のままで残っています。

織田信長の安土城址と摠見寺

「信長の館」と「安土城考古博物館」

城跡を見学した後は、近くにある「信長の館」と「安土城考古博物館」に立ち寄ってみましょう。

「信長の館」には、原寸大で復元された、安土城天主閣の5~6階部分が展示されています。豪華絢爛な天主閣の中心に立てば、信長に招待されたような気分を味わえるかもしれません。

館内のシアターでは、安土城のVR映像を上映しています。コントローラーを使って自由に空間を行き来できるマニュアル版もあり、子どももゲーム感覚で楽しめるでしょう。

隣接する「安土城考古博物館」では、城跡発掘調査の出土品や、信長に関する資料を見学できます。

安土城天主 信長の館(文芸の郷)
安土城考古博物館

天下布武の夢の舞台、安土城

「天下布武(てんかふぶ)」の夢を実現しようと、戦国の世を駆け抜けた織田信長は、志半ばで倒されてしまいました。夢の舞台となるはずだった安土城も、信長とともに滅びます。

しかし、戦(いくさ)の香りがしない豪華絢爛な城のたたずまいは、来るべき平和な世の中を予感させる存在として、人々の記憶に残ります。見学の際には、信長が安土城にこめた思いについても、親子で話し合ってみるとよいでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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