ピカソの本名とプロフィール
ピカソのフルネームやプロフィールは、彼がどのような人物だったのかを知る上で重要な情報です。まずは本名とプロフィールを見ていきましょう。
ピカソの本名とは
ピカソの名前は「パブロ・ピカソ」として知られていますが、フルネームはさらに長い名前です。
出生証明書に書かれている本名と、洗礼名があります。ここでは、洗礼名として登録されている名前を紹介しましょう。
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・クリスピン・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・イ・ピカソ」がピカソの洗礼名です。芸術家として名乗っている「パブロ・ピカソ」は、フルネームの最初と最後を組み合わせたものであることが分かるでしょう。
名前が極端に長くなった理由として、当時のスペインで本人のファーストネームに「父方の姓」「母方の姓」を両方付け加える風習があった事に加え、聖人や縁者の名前も追加される傾向があったためといわれています。

ピカソのプロフィール
ピカソの生年月日は、1881年10月25日です。スペインのマラガという場所で生まれています。
1891年には家族とともに、ガリシアのラ・コルーニャへ移住しました。ピカソは絵の才能を認められ、ラ・コルーニャにある美術学校に特別入学しています。
14歳の頃にはすでに画家としての活動を開始していることからも分かるように、幼い頃から類まれな才能を発揮していたようです。父であるホセ・ルイス・イ・ブラスコは当時画家・美術教師として活動していましたが、ピカソが描いた作品を見て、筆を折ったともいわれています。
ピカソの生涯に関するエピソード

ピカソは、どのような生涯を送った芸術家なのでしょうか? 出生や晩年にまつわるエピソードを紹介します。
出生にまつわる逸話
ピカソには、「生まれたときに死産と判断された」というエピソードがあります。難産であり、呼吸も見られなかったことから、助産師は生きていないと判断したようです。
しかし、医師である叔父が葉巻の煙を顔に吹きかけてみたところかすかな産声を上げ、生きていることが分かったといわれています。
出生時のエピソードからピカソは「葉巻の煙とともに生まれた」といわれ、愛煙家としても知られています。
晩年は陶芸家として作品を残す
ピカソは画家として名を残していますが、晩年は陶芸家として活動していました。陶芸作品には絵付けがされ、ピカソの作品として高い評価を受けているものもあります。
同じ作品が複数出回るため、絵画と比べると手に入れやすい価格帯の作品が多いようです。
ピカソの陶芸作品は、美術館でも見ることができます。かつてアトリエとしても使用されていたアンティーブの美術館もその一つです。日本でもピカソの陶芸作品を扱う美術館はあり、ヨックモックミュージアムなどでピカソのセラミック作品を見ることができます。
91歳のときに病気で亡くなる
ピカソは1973年4月8日、フランスのムージャンにある自宅で、急性肺気水腫により亡くなりました。死の前日の夕食時、ピカソは客たちに「私のために、私の健康のために飲んでくれ。知ってるだろう、私はもう飲めないんだ」という言葉を残しています。
翌日の午前11時半ごろ、苦しんでいる状態で44歳年下の妻ジャクリーヌ・ロックに発見され、医師が到着する前に息を引き取りました。亡くなった時、周囲にはクレヨンが散乱しており、最期まで創作意欲は衰えていなかったことが分かります。死後、約3万9000点もの未発表作品が発見されています。
ピカソの作風の変遷
ピカソは、時代を追うごとに作風が変化していったアーティストとしても知られています。初期・中期・後期では、同じ人物が描いたとは思えないほど、絵の雰囲気が変わっているのです。時期による作風の違いや、主な作品を紹介します。

初期の作風
ピカソは、美術学校に在籍していた初期の頃から高い評価を受けていました。1897に描いた油彩画「科学と慈愛」は、美術展で入賞を果たしています。
その後、ピカソはパリへと移住し、創作を続けます。しかし、親友のカサジェマスが自死してから、ピカソの作風にも影響が現れました。
当時の制作活動期間は「青の時代」と呼ばれ、青を基調とした暗く陰鬱な作品が目立ちます。青の時代の作品は多数ありますが、「年老いたギター弾き」「海辺の母子像」などが有名です。
親友の死から数年がたち、ピカソの精神状態が落ち着いてくると作品にも暖色が使われるようになり、その頃の制作活動期間は「バラ色の時代」と呼ばれています。

中期の作風
ピカソの作品には、抽象的なイメージの絵画も多く含まれます。中期の作品には、対象物を分解し組み立て直した「キュビスム」を意識したものも多く、「アヴィニョンの娘たち」が有名です。

キュビスムはピカソとジョルジュ・ブラックが発展させた芸術運動であり、多くの芸術家に影響を与えています。
その後、ピカソは最初の妻であるオルガ・コクローヴァとの出会いを経て、新古典主義を発展させました。オルガの肖像や、「海辺を走る二人の女」が新古典主義の時代の作品として知られています。新古典主義の作品は、キュビスムを意識した作品と比べると、写実的な作品が多いといえるでしょう。
後期の作風

ピカソの後期作品として、「ゲルニカ」が知られています。ゲルニカは、スペインの都市名です。ピカソの絵が製作された1937年のスペインは内戦中で、政府軍と反乱軍を指揮していたフランシスコ・フランコが対立していました。
反乱軍側についたドイツ空軍がゲルニカを無差別爆撃し、多くの市民が犠牲になっています。ピカソは、内戦時の空爆をテーマに、ゲルニカを描きました。
直接的に空爆のシーンを描いたわけではありません。ピカソは絵画の解釈については語っていませんが、ゲルニカに描かれているモチーフは反戦や平和の象徴として多くの人に受け入れられています。
オークションで高額取引された作品
ピカソの作品は、オークションでも高額取引が行われています。オークションで高額取引の実績がある、主な作品を紹介しましょう。注目を集めた作品でもあり、ピカソの作品の中でもよく知られています。
Femme a la Montre
「Femme a la Montre(時計を付けた女)」は、2023年11月8日、競売大手サザビーズがニューヨークで開催したオークションで、1億3,900万ドルの値を付けた作品です。当時のレートで約210億円と、ピカソの絵画の中でも高額で取引されています。
「Femme a la Montre」に描かれているのは、ピカソの恋人として知られているマリー・テレーズ・ウォルターです。腕時計を付けた金髪の女性が、抽象的に描かれています。
フランスでモデルとして活躍していたマリーは17歳のときにピカソに出会い、1927年から1935年ごろまでピカソと恋愛関係にあったようです。複数の作品のモデルになっており、オークションで取引された「Femme a la Montre」以外に、「Femme nue couchée」や「Portrait of Marie-Thérèse Walter 1937」などがよく知られています。
The Women of Algiers, Version O
2015年5月11日、競売会社クリスティーズが開催したオークションでは「The Women of Algiers, Version O(アルジェの女たち バージョンO)」が1億7,940万ドルで取引されています。当時のレートで約215億円と高額です。
「The Women of Algiers, Version O」は、ドラクロワの「アルジェの女たち」へのオマージュ作品で、A~Oまでの15作品があります。オークションで取引されたVersion Oに描かれた女性のモデルとなっているのは、当時の恋人であり後に結婚し、最期を看取ったジャクリーヌ・ロックです。
「アルジェの女たち」には、アルジェリアのハーレムで過ごす女性たちが描かれています。

ピカソの生涯と作風を理解しよう
ピカソはスペイン生まれの画家で、多くの芸術作品を残したアーティストとして知られています。幼い頃から画家としての才能を発揮し、若くして高い評価を受けていました。多くの女性と恋愛関係にあり、作品の中には恋人がモデルになっているものもあります。
長い間画家として活動している間に、作風が大きく変化している点もピカソの特長です。オークションで取引された作品の中には、当時のレートで200億円を超える高額な値が付いたものもあり、現在でも天才芸術家として評価されています。
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構成・文/HugKum編集部