和菓子には、季節や行事に合わせて四季を楽しむ日本人の心が表されています。「白い黄金」と称された貴重な砂糖をつかった和菓子は、まず、富裕層向けに京都で発達し、将軍のお膝元である江戸に広まりました。 文政元年に、江戸・九段に出府を果たした榮太樓總本鋪。およそ160年前に、現在の日本橋の地に店を構えて営業を続け、創業200年を迎えました。和菓子を庶民に届け続けてきた榮太樓總本鋪がお届けする「和菓子歳時記」。ふだんの暮らしで親しんできた和菓子にまつわるエピソードをお楽しみください。
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創業の地名を由来に持つ名物「西河岸大福」は、江戸っ子の人気のおやつだった
榮太樓總本鋪が、創業以来店舗を構える日本橋の地は、江戸時代には、「日に千両の商いに賑わう」と称された活気ある魚河岸に近い場所で、西河岸町(にしがしちょう)と呼ばれていました。その地名がつけられた「西河岸大福」は、名代金鍔(きんつば)と並んで、榮太樓を代表するお菓子です。
大福は、江戸時代に庶民のお菓子として定着しました。今も、手軽に食べられる和のおやつの代表格ですが、榮太樓の西河岸大福は、江戸時代、魚河岸の若い衆がひと働きした後に、空腹を満たすための格好な餅菓子として評判になりました。
「せっかちな江戸っ子」に食べやすく、口に入れた時にふわっと柔らかいけど、噛むとプツリとした歯切れがよいという餅に、たっぷりの餡をくるんだ西河岸大福は、「一つ食べれば充分」というずっしりとした大きさで、別名「腹太餅(はらぶともち)」とも呼ばれたとか。
手のひらに取ればずっしりとした重量感を感じる「西河岸大福」。ひとつが、110グラム目安という、こだわりのサイズ感は今も変わっていません。
餡を包むのは、神事にも使われるもち米「マンゲツモチ」から作られた餅
北海道産のこだわりの小豆から作られたたっぷりとした餡を包むしっかりとした歯ごたえの餅。
榮太樓の餅菓子の餅は、すべて「マンゲツモチ」という品種の餅米でつくられています。この「マンゲツモチ」は、天皇陛下が皇居内の水田で御手植えされることで有名な高級品種のもち米です。柔らかくて腰があり、なおかつ、歯でかみ切れる餅を追求してきた結果、「マンゲツモチ」にたどり着きました。
西河岸大福は、白・草・紅の三色
定番の白い餅に包んだ小倉餡、紅の餅に包んだこし餡、そして、小倉餡には生のヨモギを使った草餅も。この三色、何かを連想しませんか?
そう、ひな祭りの菱餅の色と同じなのです。菱餅は、下から、緑、白、ピンクの順番に重ねられています。「雪の中から新緑が芽吹き、桃の花が咲く」という「春の情景」を表していると言われていますが、元々、白は「清浄」、緑には「健康」、そして紅には「厄を払う」願いが込められているとも伝えられています。
江戸の昔から愛されてきた西河岸大福。変わらぬおいしさを、菱餅の3色に込められた「厄を払う」の意味をも込めて、毎日、お届けしています。
焼いて食べれば、また、違った味わい。冷凍してもその美味しさは変わりません
もち米や小豆といった素材は冷凍しても美味しさは劣化しにくいので、まとめ買いをして、食べる分を解凍して召し上がる方もいらっしゃいます。
榮太樓總本鋪に伝わる江戸時代の資料を見ると、大福を売っていた屋台には必ず火鉢が備え付けられており、恐らくは、冷たいままではなく、少し炙って提供していたようです。
西河岸大福は、餅生地に入れる砂糖の量を控えめにしているので、皮が固くなりやすくなっています。買った日に食べられなかった分は、トースターで2分ほど、全体にうっすら茶色くなるまで焼いて戴くと、香ばしく、また違った美味しさを楽しめます。どうぞ、お試しください。
監修:榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)の歴史は、代々菓子業を営んできた細田家の子孫徳兵衛が文政元年に江戸出府を果たしたことに始まります。最初は九段で「井筒屋」の屋号を掲げ菓子の製造販売をしておりました。が、やがて代が替わり、徳兵衛のひ孫に当たる栄太郎(のちに細田安兵衛を継承)が安政四年に現在の本店の地である日本橋に店舗を構えました。数年後、自身の幼名にちなみ、屋号を「榮太樓」と改号。アイデアマンであった栄太郎は代表菓子である金鍔の製造販売に加え、甘名納糖、梅ぼ志飴、玉だれなど今に続く菓子を創製し、今日の基盤を築きました。
構成/HugKum編集部 イラスト/小春あや