林子平は、何をした人?
林子平(はやししへい)は、江戸時代後期に生きた経世家(けいせいか)です。経世家とは、江戸時代中期以降、ほころびが出始めた江戸幕府の支配体制を見直すために、政策や対策を考えた知識人のこと。今でいえば、政治学者・経済学者です。
徳斎、ja:大槻磐渓賛, Public domain, via Wikimedia Commons
林子平とは
林子平は、日本は海に囲まれた国なので、外国の脅威から国を守るためには、海の防衛を強化すべきという海防論を訴えました。具体的には『三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ)』『海国兵談(かいこくへいだん)』という本を書きます。
これはのちに、「日本が幕末に諸外国から圧力を受け、開国を迫られることを予想した本」といわれるようになりました。
代表作
『三国通覧図説』1785(天明5)年
当時、日本に隣接していた朝鮮、琉球、蝦夷(えぞ)の3つの国と、小笠原(おがさわら)諸島、および日本からの距離を示した全体図という「5枚の地図」、そして各地域の地理や風俗を挿絵入りで解説した書一冊からなる地誌です。
国を守るためには、国のまわりの地理を知ることが重要であると説いています。
『海国兵談』1786(天明6)年
全16巻の兵書。1777(安永6)年から書きはじめ、1786年に書き終えました。当時、ロシア南下の脅威に対して、海の防衛の必要性を訴えました。
特に、幕府が置かれている江戸が、海上から攻撃を受ける可能性を指摘しました。また、強力な海軍を持つためには、幕府の権力と経済力の強化が必要とも述べています。
林子平のおいたち
林子平は、1738(元文3)年に江戸に生まれました。8代将軍、吉宗(よしむね)の時代です。
3歳のとき、父親が浪人となったため、兄とともに叔父に養われることになります。その後、兄が仙台藩に仕官することになり、1757(宝暦7)年に仙台に移り、自身も仙台藩士となります。
1765(明和2)年、財政難に苦しむ仙台藩に、自身の財政政策を示した書「富国建議」を提出。その後、江戸や長崎で学び、『三国通覧図説』と『海国兵談』で海の軍備の必要性を世に訴えました。
無禄厄介
仙台藩に「富国建議」を提出した林子平でしたが、提案は受け入れられませんでした。子平は藩の仕事を辞め、兄の世話になりながら、蝦夷から長崎まで全国を巡ります。特に長崎と江戸で蘭学者と交流し、海外情勢を深く知るようになります。
そうして得た情報や知識をもとに、『三国通覧図説』と『海国兵談』を出版するのですが、身分としては「無禄厄介(むろくやっかい)」、つまり禄(藩からもらう給料)はなく、ずっと兄の世話になっていました。
三国通覧図説と海国兵談が発禁処分に
『三国通覧図説』と『海国兵談』は、海の守りの重要性を訴えた書物で、幕末には国の危機を唱えた書として、高く評価されるようになります。
ですが、発行当時は世の中の不安を煽(あお)る危険な書として、1792(寛政4)年、「寛政の改革」にともなう出版物取締令によって、発禁処分となり、大切な版木(本を印刷するために、木に文字や図を彫ったもの。板木とも書く)も取り上げられてしまいました。
処罰され「六無斎」と名乗る
『三国通覧図説』と『海国兵談』の発禁処分とともに、林子平自身も仙台の兄宅での蟄居(ちっきょ:部屋に閉じ込められること)を命じられ、その後、囚人として江戸に送られます。
このとき、「親もなし妻なし子なし板木なし金もなけれど死にたくもなし」という和歌を読み、自らを「六無斎(ろくむさい)」と名乗りました。
寛政の三奇人
書物が発禁処分となり、自身も囚人となった林子平ですが、幕末には海防の重要性をいち早く訴えた人物として、高く評価されるようになり、「寛政の三奇人」と評されるようになります。
寛政の三奇人とは、林子平のほかに、同じ江戸時代後期の寛政(1789~1801)の頃に尊王思想を説いた高山彦九郎(たかやまひこくろう)、天皇陵の荒廃を嘆いて『山陵志(さんりょうし)』を書いた蒲生君平(がもうくんぺい)をいいます。
この場合の「奇人」とは、人の注目を引く奇抜な行動をした人という意味ではなく、「世の中の多くの人とは異なる視点を持ち、世の中に自説を訴えた人」という意味です。
林子平の地誌①三国通覧図説
『三国通覧図説』は、朝鮮、琉球、蝦夷の3つの国と小笠原諸島、および日本からの距離を示した全体図の5枚の地図と、解説書からなる地誌です。
内容
「国事にあずかる者地理を知らざるときは治乱(ちらん)に臨みて失うあり、兵士をさげて征伐を事とする者地理を知らざるときは安危(あんき)の場に失うあり……」と記されており、地理を知ることは、国を治め、また他国と戦うときに重要であることを訴えています。
特にロシアが南下し、蝦夷に侵略してくる恐れがあると警告し、蝦夷の開発を提案しており、特に蝦夷の風俗について詳しく説明しています。
功績
江戸時代、日本は鎖国していました。外国との交流を制限していた時代に、いち早く、近隣の国について知ることの重要性を訴えたことで、『三国通覧図説』はのちに高く評価されるようになります。のちに本書はロシアからフランスに渡り、パリで翻訳・出版されています。
また、蝦夷に暮らしていたアイヌ民族の文化について、衣服や道具、暮らしなどが挿図を使って説明されており、アイヌ民族に関する文献としても貴重なものになっています。
林子平の兵書②海国兵談
『海国兵談』は、林子平が1777年から書きはじめ、1786年に書き終え、1788年から1791(寛政3)年にかけて全16巻を自費で出版しました。
内容
当時、ロシア船が蝦夷に現れるようになったことに危機を感じ、日本を守るためには海の防衛が重要であることを訴えています。また守りを固めるためには、まず国を豊かにすることが必要であることなども説いています。
「江戸の日本橋より唐(とう)・阿蘭陀(オランダ)迄、境なしの水路なり」と書き、特に江戸沿海の防備が緊急に必要で、大船(おおぶね)を建造して大筒(おおづつ)を備えるべきと主張しています。
功績
当時は発禁処分となりましたが、その後、ロシアが通商を求めて根室(ねむろ)に来航したことで、その先見性が証明されることになりました。
江戸時代末期には、幕府は実際に江戸の守りを強化する政策を行います。今、さまざまな商業施設やレジャー施設で人気の「お台場(だいば)」は、砲台(台場)を整備した跡地です。
『海国兵談』は、幕末に盛んになった海防論(かいぼうろん)の起源といえ、その後、明治時代には、経済の発展によって軍備を整えようとする富国強兵論にも影響を与えました。
海防論を唱えた「寛政の三奇人」林子平
SEKIUCHI, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons
鎖国していた江戸時代に、外国の脅威をいち早く警告した林子平。その優れた見識は「早すぎた」ため、『三国通覧図説』と『海国兵談』は発禁となりました。
1793(寛政5)年、子平は失意のうちに世を去りますが、その後、江戸幕府も海防の重要性を認識するようになり、1851(嘉永4)年には『精校海国兵談』として復刻出版されました。
四方を海に囲まれた日本。海の守りの重要性は、林子平が生きた江戸時代から、21世紀の今も変わることはありません。
文・構成/HugKum編集部