聖徳太子とは
「聖徳太子(しょうとくたいし)」の生前の名前は、「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」といいます。飛鳥時代の重要人物ですが、いったいどのような立場の人だったのでしょうか。
まずは、生い立ちと生涯について見ていきましょう。
飛鳥時代の政治の中心人物
厩戸皇子は574(敏達天皇3)年、橘豊日(たちばなとよひ)皇子(後の用明天皇)の第二子として、現在の奈良県明日香村の辺りで生まれたとされています。
20歳のときに叔母である推古天皇(すいこてんのう)から摂政(せっしょう)に任命され(593)、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに政治の中枢で推古天皇を支えました。
聖徳太子と呼ばれるようになったのは、亡くなった後のことです。仁愛の心を持っていた聖徳太子は、民に慕われ、仏のような聖人として長く語り継がれてきました。
お札の肖像に採用
現代では、1万円札の顔といえば「福沢諭吉」ですが、数十年前まで一万円札の肖像は「聖徳太子」でした。聖徳太子が肖像となっていたのは、一万円札だけではありません。
1930年発行の「乙百円券」で初めて肖像に採用されて以来、「B千円券」「C五千円券」など全部で7種類、さまざまな額面の銀行券に登場してきました。
聖徳太子が肖像となった銀行券は、他のどの銀行券より長い間使用されてきたため、聖徳太子は「銀行券の顔」ともいえる人物なのです。
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聖徳太子が関わった政治的偉業
聖徳太子は政治家として活躍するなかで、日本文化の発展にも大きく貢献しました。教科書に、必ずといってよいほど登場する、聖徳太子が関わった重要な出来事を見ていきましょう。
603(推古天皇11)年「冠位十二階」
「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」とは、官僚の位を徳・仁・礼・信・義・智の6段階に分け、さらに大徳・小徳のようにそれぞれを大小に分けて十二階とした冠位制度です。
冠位は、色と濃淡で区別したとされていますが、その詳細は明らかになっていません。
最大の特徴は、序列を身分や地位ではなく、個人の能力で決定した点です。これにより朝廷に優れた人材を確保、登用しました。
古代の朝鮮半島にあった王国「百済(くだら)」の官位制や、韓国の古代王朝「高句麗(こうくり)」の制度を参考にしたものと考えられています。
604(推古天皇12)年「十七条の憲法」
「十七条の憲法(じゅうしちじょうのけんぽう)」は、官僚の心構えを説いたものです。現代の「日本国憲法」とは異なり、一般の人々を対象とした法律ではありません。
第一条の「和を以て貴しと為す(協調性を持つことが大切)」、第二条の「篤く三宝を敬へ(仏・法・僧を敬いなさい)」など、儒教や仏教の教えが反映されています。
さらに第三条では「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹め」<天皇の命令には従いなさい>と定め、天皇を中心とした国づくりを目指したのです。
607(推古天皇15)年「遣隋使を派遣」
聖徳太子は、対等な国交を結び、優れた文化を取り入れるため、600〜614年の間、現在の中国にあたる隋(ずい)に使節団を送ります。その使節団は「遣隋使(けんずいし)」と呼ばれました。
607年の最初の遣隋使に選ばれたのは、小野妹子(おののいもこ)です。煬帝(ようだい)に渡した国書には、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」とありました。
現代の言葉では「太陽が昇る国の王より、太陽が沈む国の王へ国書を送ります」となります。この対等な国として書かれた一文に、煬帝が激怒したというエピソードは有名です。
聖徳太子が建立した寺
聖徳太子が建立したとされるのは、法隆寺・四天王寺(してんのうじ)・広隆寺・法起寺(ほっきじ)・中宮寺・橘寺・葛木寺の七つです。そのうちの法隆寺と四天王寺について詳しく見ていきましょう。
世界最古の木造建築「法隆寺」
法隆寺は607年、聖徳太子の父親である用明(ようめい)天皇の生前の願いをかなえるために建てられました。
現存する世界最古の木造建築で、約1400年の歴史があります。1993(平成5)年には「法隆寺地域の仏教建造物」として、「姫路城」と同時に、日本初となる世界文化遺産に登録されました。
最も古い建築物は、西院伽藍(がらん)にある金堂・五重塔・中門・回廊です。大陸から伝わった初期の仏教建築様式が見られますが、同様のものは中国や朝鮮にも残っていません。
参考:聖徳宗総本山 法隆寺
日本最古の寺院「四天王寺」
四天王寺は、593(推古天皇元)年に建立された大阪府大阪市天王寺にある寺院です。日本最古の寺院ではありますが、台風や空襲によって甚大(じんだい)な被害を受けたため、建築物は当時のものではありません。
回廊に囲まれて講堂・金堂・五重塔・中門が一直線に並ぶ配置を、「四天王寺式伽藍(がらん)配置」といいます。四天王寺に見られるこの建築様式は、日本最古の様式の一つです。
境内には「太子殿」「番匠堂(ばんしょうどう)」「和労堂」「聖徳太子影向引導石(ようごういんどうせき)」の4カ所に、聖徳太子の仏像が祀(まつ)られています。
聖徳太子の不思議なエピソード
本当のことなのか、人々の信仰のたまものなのかは分かりませんが、聖徳太子には、人間離れした逸話がいくつか残されています。
どのようなものがあるのか詳しく見ていきましょう。
10人の話を同時に聞き分けた
「聖徳太子は、何人もの話を同時に聞き分けられた」というのは、数ある逸話の中でも、最もポピュラーなものではないでしょうか。
あるとき、聖徳太子が人々の願いを聞く場を設けたところ、10人が集まって一気に話し出したそうです。聖徳太子はそのすべてを理解し、それぞれに的確に答えたといわれています。
また「上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)」などの聖徳太子の伝記には、8人の話を一度に聞き分けたとも記されており、真偽も含め、この逸話には諸説があります。
初めて富士山に登頂した
一説によると、富士山に初めて登頂したのは聖徳太子だそうです。とはいえ、常人のように、地上を歩いて登ったわけではありません。
聖徳太子は馬に乗って奈良の都を飛び立ち、空から富士山へ降り立ったというのです。この逸話は「甲斐(かい)の黒駒(くろこま)伝説」といい、その様子を描いた絵は全国に残されています。
江戸時代の書物によれば、聖徳太子が降り立ったのは富士山の8合目でした。そのため、8合目一帯は伝説にちなんだ「駒ヶ岳」と呼ばれ、聖徳太子が休憩したとされる「太子館」という山小屋もあります。
愛犬まで優れていた
聖徳太子は「雪丸(ゆきまる)」という名前の白い犬を飼っていました。雪丸は人の言葉を理解し、聖徳太子と会話をすることもできたといわれています。
とても賢い犬で、中国に禅宗の基礎を築いた達磨(だるま)大師を慕って、死後に達磨寺に埋葬してほしいと言い残したそうです。達磨寺の1号墳は、雪丸の墓とされ、本堂の南西には雪丸の像が祀られています。
なお現在、雪丸は、奈良県北葛城郡王寺町の公式マスコットキャラクターとして活躍中です。
参考:片岡山 達磨寺
小学生におすすめの伝記
歴史上の偉人について学ぶとなると、その時代の歴史的背景や政治の話など、やや難しい内容も避けられません。抵抗なく聖徳太子について学べるよう、小学生向けのやさしい伝記を紹介します。
飛鳥人物伝 聖徳太子(コミック版日本の歴史)
小学校中学年を対象としたマンガで読める伝記です。聖徳太子の生涯が5章構成でまとめてあり、幼少期から晩年まで、その偉業が分かりやすく解説されています。
巻末には解説・豆知識・年表があるため、本編で得た知識を整理するのに役立ちます。絵柄は、今風で躍動感があり、難しい話をしている場面も子どもを飽きさせないでしょう。
想像しにくい当時の様子を、視覚から理解できるのが、マンガで読める伝記の特徴です。子どもが楽しんで勉強できるよう、学習にマンガを取り入れてみてはいかがでしょうか。
学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 聖徳太子
マンガで描かれた聖徳太子の伝記です。巻頭にある年表には、日本の出来事と並行して、世界の出来事についても書かれています。
ストーリーの中で説明しきれない点については、枠外に注釈が付けられているため、疑問をその都度、解消しながら読み進めていけるでしょう。
かわいらしく親しみやすい絵だけでなく、ところどころに実際の物や場所の写真が使われており、具体的にイメージしやすくなっています。マンガを読み慣れていない低学年の子どもでも、読みやすい内容となっているのではないでしょうか。
聖徳太子は仏教を基盤に政治を行った
聖徳太子は、天皇家に生まれ、摂政として政務を執り行っていました。仏教の保護にも熱心で、その教えを政治に生かし、新しい国の基礎をつくり上げたのです。その偉業は、後世まで長く語り継がれ、聖徳太子は日本で最も有名な偉人の一人といっても差し支えないでしょう。その偉業から、数々の逸話も残されています。
聖徳太子は日本史で必ず登場する人物なので、この機会に子どもと一緒に伝記を読んでみるのもよいかもしれません。
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構成・文/HugKum編集部