卑弥呼にまつわる疑問を解決。古代の日本について親子で学ぼう

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卑弥呼は古代の日本人として存在が確認されている、数少ない人物の一人です。素性や住んでいた場所などは不明ですが、その存在は当時の日本の情勢を知る手がかりになっています。卑弥呼にかかわる情報を整理し、古代日本の謎に迫りましょう。

卑弥呼とは、どんな人物?

「卑弥呼(ひみこ)」は、古代の日本を治めていた女王です。女王と聞けば、どんな家柄だったのか、なぜ卑弥呼と名乗っていたのかなど、さまざまな疑問が浮かんできます。

卑弥呼とは何者だったのか、現在分かっていることを簡単に解説します。

卑弥呼(イメージ)

3世紀前半の日本を治めた女王

卑弥呼が歴史の表舞台に登場するのは、3世紀の前半頃です。当時の日本は、数十の小さな国に分かれており、2世紀後半~3世紀にかけて、国同士の争いが絶えませんでした。

しかし、「邪馬台国(やまたいこく)」が卑弥呼を女王にたてて連合政権をつくったところ、争いは収まり、人々の暮らしも安定したといわれています。

邪馬台国は、その名称から日本の国名を指すと思われがちですが、実際は、たくさんあった小国のうちの一つで、女王の住む首都のような存在だったと考えられています。

中国の歴史書で存在が明らかに

実は、日本の歴史書に、卑弥呼の名は一切登場しません。卑弥呼の存在が明らかになったきっかけは、中国の歴史書「三国志(さんごくし)」です。三国志は、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三つの国の歴史を記録した書物です。

魏国にかかわる事柄を記した「魏書」の中に、倭人(わじん、日本人のこと)について紹介する部分があり、倭の女王が魏に使者を送ったことや、そのときに伝わった日本の様子などが記されています。

この部分は「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と呼ばれ、古代日本の様子が分かる客観的な史料として、現在も歴史学者による研究が続いています。

本名は不明

卑弥呼を、平仮名で書くと「ひみこ」です。現代人にとっては、いかにも女性らしい名前のように感じるかもしれません。ただ、王の名前に「卑しい」や「呼ぶ」の文字が使われているのを、不思議に思う人もいるでしょう。

卑弥呼の表記は、中国人が、日本から来た使者の「ひみこ」あるいは「ひめこ」という発音を聞き、似た音の漢字を当てたものと考えられています。

「ひみこ」も「ひめこ」も、特殊な能力を持った人物を意味する言葉です。また「ひめこ」には、位の高い女性を表す意味もあります。

いずれにしても、「ひみこ」は女王の個人的な名前ではなく、地位を表現した言葉だったといえます。ほかに卑弥呼の名前に関する記録はなく、本名は謎のままです。

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卑弥呼は、どうやって国を治めたの?

卑弥呼が女王になる前の邪馬台国は、男性の王が統治していたといわれています。女性の身で「王」となった卑弥呼は、争いの絶えなかった国々を、どのようにまとめたのでしょうか。

「鬼道」と呼ばれる呪術を使った

魏志倭人伝には、女王は「鬼道(きどう)」によって国を統治していたとあります。また、彼女は高齢の独身女性で、宮殿にこもったまま、ほとんど人前に姿を現さなかったそうです。

鬼道とは、占いやまじないなどの術を指す言葉で、神のお告げをたまわる霊能力も含まれます。独身だったことや、姿を見せないミステリアスな暮らしぶりから、卑弥呼は神に仕える「巫女(みこ)」のような存在だったと考えられています。

当時の人はおそらく、国同士の争いを、人知を超えた神の言葉によって収めようとして、優秀な巫女を王の座に据えたのでしょう。

勾玉(まがたま)。勾玉は古代日本の装身具の一つで、写真は水晶とトルコ石で作られている。古事記では「曲玉」、日本書紀では「勾玉」と表記される。また、魏志倭人伝には「句珠(くしゅ)」とあって、壱与から魏への貢物の中にも「孔青大句珠二枚」とあり、ヒスイ製勾玉であろうと推測されている。卑弥呼も身に付けていたかもしれない?

弟が外部とのパイプ役に

卑弥呼は、邪馬台国にある立派な宮殿で暮らし、身のまわりの世話をする侍女が1000人もいたそうです。しかし、彼女の居室に出入りを許されたのは、弟とされる一人の男性だけでした。

占いやまじないの結果は、すべて弟を通して外部に伝えていたようです。なぜ、そのような回りくどいことをしたのかは分かりませんが、姿を隠すことで神秘性が増し、神の言葉を民衆に信じさせる効果はあったと考えられます。

強国「魏」に朝貢した

卑弥呼は239年から、中国で強い勢力を持っていた「魏」に何度も朝貢(ちょうこう)しています。朝貢とは、強国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物(みつぎもの)を捧げ、皇帝から恩恵を得る外交政策のことです。

彼女は魏の皇帝に奴隷や布などを贈り、見返りとして、日本の王を意味する「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と金印、100枚の銅鏡などを与えられました。

銅鏡は、卑弥呼が強国の魏と親密な関係にあることを示す証拠品です。背後に強国があると分かれば、他の国は容易に手出しができません。卑弥呼は各国の王に銅鏡を配って、魏が後ろ盾であることを示し、争いを防いだのでしょう。

卑弥呼の後継者と、残された謎

生涯独身で、子どもがいなかった女王の跡は、誰が継いだのでしょうか。また、卑弥呼が暮らした邪馬台国は、どこにあったのでしょうか。

気になる卑弥呼の謎を見ていきましょう。

一族の女性が王になった

卑弥呼は、247年頃に近隣国との間に起こった戦乱の前後に亡くなったようで、80歳を超えていたと推測されています。死後は、大きな墓に、100人以上の奴婢(ぬひ)とともに埋葬されました。

箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国が畿内なら、この箸墓古墳が卑弥呼の墓に比定されている。卑弥呼の没年に近い3世紀中ごろから後半の築造とされ、全国の古墳の標準になった。つまり、箸墓古墳築造から「古墳時代」が始まったということになる。

 

その後、邪馬台国では男性の王が即位したものの、他国が服従せず、再び争いが起こってしまいます。女王の霊能力がなければ国が治まらないと考えた末に、邪馬台国は卑弥呼の一族の女性を王にしました。

女性の名は「壱与(いよ)」といい、13歳の少女だったと伝わっています。壱与が女王になって、争いはしずまったようですが、その後の記録は魏志倭人伝にも残っていません。

邪馬台国の場所は、今も分かっていない

魏志倭人伝には、邪馬台国への行き方が書かれています。しかし記録があいまいで、日本のどの地にも到達できません。したがって、邪馬台国の場所は、今も不明です。

もし場所が明らかになれば、歴史的な大発見であり、注目を浴びることは確実です。このため、魏志倭人伝の記録をさまざまな角度から解釈した「邪馬台国論争」が、何度も繰り返されています。

今のところ、邪馬台国の場所の有力候補は、「九州と近畿」です。ほかには岡山県・島根県・四国の各県、そして沖縄県などが候補地として名乗りを上げています。

平原(ひらばる)遺跡1号墳(福岡県糸島市)。「伊都国に代々の王がいた」と、魏志倭人伝に書かれていた伊都国王の墓とされる。副葬品の多くは、直径46.5㎝の「大型内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」をはじめ、40面の銅鏡、勾玉、管玉などの装身具(すべて国宝)で、武器類は少なかった。そのため、この墓に埋葬されているのは女性だと推定される。つまり、邪馬台国が九州なら、この墳墓が卑弥呼の墓というわけだ。

鬼道と外交で国を治めた女王卑弥呼

卑弥呼は、当時の中国人が「鬼道」と呼んだ、呪術的な能力で日本を統治した女性です。しかし彼女は霊能力だけでなく、魏への朝貢を欠かさず、強国の後ろ盾を得る外交手腕も持っていました。

当時、長く続いた争いを収束させ、国際社会にデビューした功績は大きかったといえるでしょう。弟とともに国を治めた女王・卑弥呼を通して、古代の日本に対する理解を深めていきましょう。

もっと深く知りたい人のための参考図書

小学館版学習まんが  ドラえもん人物日本の歴史1「卑弥呼」

ビッグコミックス「卑弥呼―真説・邪馬台国伝―」

小学館  学習まんがシリーズ3「卑弥呼と邪馬台国 レキタン!」

勉誠出版「卑弥呼の墓は、すでに発掘されている‼―福岡県平原王墓に注目せよ」

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構成・文/HugKum編集部

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