姉川の戦いとは
歴史の授業で習った記憶はあっても、「姉川(あねがわ)の戦い」がどのようなものだったのか、思い出せない人もいるのではないでしょうか。そこで、最初に概要を紹介します。
1570(元亀元)年に起こった戦
姉川の戦いは、1570年6月28日に起こった、織田信長(おだのぶなが)・徳川家康(とくがわいえやす)軍と浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)軍の合戦のことです。近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)にある姉川流域で起こったことから、姉川の戦いと呼ばれています。
織田・徳川軍の勝利に終わったとされていますが、激戦だったこともよく知られています。多くの死者や負傷者を出し、川が血で染まるほどだったようです。現在も、戦地付近には「血原(ちはら)」や「血川(ちがわ)」という地名が残っていることからも、激戦だったことがうかがえるでしょう。
また、姉川の戦い後も、両軍の戦いは続きました。
合戦に至った原因・結果
織田・浅井は、縁戚関係にあったにもかかわらず、なぜ合戦に至ったのでしょうか? 主な原因を、経緯とともに順を追って見ていきましょう。
京都への上洛を狙う織田家
尾張国(おわりのくに、現在の愛知県)を統一し、美濃国(みののくに、現在の岐阜県)を手中に収めた後、京都への上洛(じょうらく)を狙う織田信長は、京都への交通を確保する必要がありました。そこで、京都への道中にある北近江を争うことなく通れるようにするために、辺りを治めていた浅井長政に自分の妹である「お市(いち)の方」を嫁がせたのです。
政略結婚により、織田と浅井は縁戚関係ができ、同盟が結ばれました。浅井が治める地域が安全に通行可能になれば、勢力を持っていた越前国(えちぜんのくに、現在の福井県)を治めていた朝倉義景を攻める際にも有利だったことも、同盟を結んだ理由の一つです。
織田・朝倉の間で揺れる浅井
織田・徳川軍が、再三の勧告にもかかわらず、上洛命令を無視し続ける朝倉を討伐するために出陣しました。しかし、縁戚関係にあった浅井が離反したという知らせを受けて撤退します。
実は、浅井と朝倉は古くから同盟が結ばれており、織田と同盟を結ぶ際も朝倉とは戦わないことを約束していたのです。浅井は、織田と朝倉のどちらに付くか迷うも、約束を破り朝倉討伐に動いた信長への不信感も手伝い、朝倉に加勢したといわれています。
味方のはずの浅井軍に背後から攻められた織田軍は、いったん撤退します。これが姉川の戦いのきっかけとなった「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」です。
浅井家離反から半年後に、姉川の戦い
いったんは退いた織田・徳川軍ですが、そのまま放置するわけにはいかず、再び態勢を整え報復として挑んだのが、半年後の姉川の戦いです。
報復を予想していた浅井は、長比(たけくらべ)城や小谷(おだに)城の守りを固めましたが、長比城が攻め落とされます。小谷城は何とか守り切ったものの、数日後に再び小谷城の南方にある姉川を挟み、決戦が繰り広げられたのです。
それぞれの兵士数などは、文献によって異なっており、現在でも浅井・朝倉軍が撤退したこと以外は諸説あります。
姉川の戦いにおける主要人物
姉川の戦いに関わった主要人物は、それぞれ、どのような人物だったのでしょうか? 人物像を知ると、歴史上の出来事により興味を持てるでしょう。
織田信長
織田信長は、戦国武将の中で最も有名な人物の一人で、1534(天文3)年に尾張国に生まれました。父親は織田本家に家臣として仕えていた戦国大名の織田信秀(のぶひで)です。若い頃の信長は「うつけ」と呼ばれるほど、奇行を繰り返す破天荒な性格だったといわれています。
しかし、有力な大名だった今川義元(いまがわよしもと)を倒したことをきっかけに頭角を現し、天下統一を目指すまでになった人物です。目的を達成するためには手段を選ばないなど残虐非道な面が目立ちますが、実際には革新的な考え方を持っており、弱い者への慈愛を示したというエピソードも伝えられています。
家臣だった明智光秀(あけちみつひで)軍に討たれ、天下統一を目前にしながら自害した最期も有名です。
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浅井長政
浅井長政は、1545(天文14)年に北近江の領主だった浅井久政(ひさまさ)の息子として誕生します。浅井家は、近江国を治めていた六角義賢(ろっかくよしかた)に従属していましたが、六角家への不満が爆発したことにより、長政をリーダーとしてクーデターを企てます。
1560(永禄3)年、兵力で半分以下と圧倒的に不利だったにもかかわらず、六角軍に勝利しました。まだ10代であった長政は、若きリーダーとして名を挙げたのです。
姉川の戦い後も、武田信玄と同盟を結び、信長打倒を試みましたが、1573(天正元)年に信長に追い詰められ、29歳の若さで自害しました。
朝倉義景
朝倉義景は、1533(天文2)年に、名門として知られていた朝倉家当主の息子として生まれました。朝倉家全盛期に生まれ、貴族のような豊かな生活をしていたといわれています。
16歳のときに父が急死し、当主になります。後の将軍となる足利義昭(あしかがよしあき)のサポートを受けるなど、恵まれた状況だったにもかかわらず、上洛をためらったことで信長の躍進を許してしまったのです。
浅井とともに織田・徳川軍と戦いますが、猛攻に耐えきれず、1573年に自害して生涯を閉じました。
お市の方
信長の妹であるお市の方は、絶世の美女の一人として名高い人物です。外見が美しいだけでなく、政治家としての先見の明(めい)があったともいわれています。
浅井長政とは政略結婚でしたが、仲睦まじい夫婦として知られており、3人の娘をもうけました。しかしながら、両家の関係が悪化したことで、結婚が破綻してしまいます。
信長の死後には、信長の古くからの家臣であり、20歳以上年の離れた柴田勝家(しばたかついえ)と再婚しました。しかし、勝家が豊臣秀吉との戦いに敗れたことで、悲しい運命をたどります。逃げ切れないと悟った勝家が、お市の方に逃げるように勧めたものの、ともに自害する道を選んだといわれています。
歴史に名を残す合戦の詳細を確認しよう
姉川の戦いは、1570年に起こった織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の合戦です。朝倉義景が上洛命令を無視し続けたことや、織田が朝倉を攻めないという浅井との約束を破ったことなどが主な原因です。
織田・徳川軍の勝利に終わりましたが、その後も戦いは続き、最終的には浅井・朝倉ともに自害しています。その後、信長がどのように勢力を強めていったのかもあわせて調べてみると、日本史におけるこの戦いに対する理解もより深まることでしょう。
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構成・文/HugKum編集部