日米和親条約とは、どのようなもの?
黒船(くろふね)が来航した当時(1853)、日本は長崎の出島(でじま)を除いて、外国人の入国や外国船の入港を一切、禁じています。しかし、すでに18世紀の終わり頃から、ロシアやイギリス、オランダといった国々が、日本に開国を打診するようになっていました。
その中で、頑(かたく)なに鎖国(さこく)体制を貫こうとする日本の扉を開いたのは「アメリカ」でした。そのとき、両国間で締結されたのが「日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)」ですが、どのような経緯で締結されたのか、詳しく見ていきましょう。
日本開国のきっかけとなった条約
1853(嘉永6)年6月、アメリカの東インド艦隊司令長官・ペリーが、4隻の軍艦を率いて浦賀(うらが、現在の横須賀市)に来航します。ペリーは、日本の江戸幕府に開国を要求する大統領親書を持参していましたが、江戸幕府は回答を保留し、いったんペリー一行を退去させます。
しかし翌1854(嘉永7)年1月、ペリーは軍艦9隻とともに来航し、江戸湾(現在の東京湾)へ入港しました。再度開国を迫られた江戸幕府は、ついに受け入れざるを得なくなります。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、江戸幕府は日米和親条約に調印しました。続いてイギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結んだことで、約200年続いた鎖国は終わりを迎えます。
日米和親条約締結をアメリカが求めた理由
アメリカはなぜ、鎖国をしている日本に開国を求めたのでしょうか? 日本の開国や日米和親条約の締結によって、アメリカにどのようなメリットがあったのか解説します。
捕鯨の補給用拠点として
アメリカが日本に開国を迫った理由の一つに、捕鯨(ほげい)の補給用拠点として利用したかったことが挙げられます。黒船来航当時は、クジラから採れる鯨油(げいゆ)を燃料や機械油として使っていました。
クジラは燃料以外にも、さまざまな用途があります。そのため、アメリカでも捕鯨は盛んでした。
太平洋北部は、クジラのよい漁場でしたが、アメリカからは距離があります。長期間の漁には、捕鯨船が燃料や食料を調達する拠点が必要で、位置的に日本が適していると考えられたのです。
アジアに進出する足掛かりとして
アメリカは、貿易を目的に清(しん)への進出を目論(もくろ)んでいましたが、アジアに植民地を持っていませんでした。そのため、アジア各地に植民地を持つヨーロッパ諸国におくれをとっていたのです。
当時、アメリカからアジアに至るには、アフリカ南端の喜望峰(きぼうほう)を回るルートが一般的でした。しかし、太平洋を横断すれば、はるかに早く到達できます。
日本に拠点を置くことで、アジアに進出する足掛かりとして、補給などができるというメリットもありました。アメリカの意図は、捕鯨だけでなく、貿易においても日本を拠点として、ヨーロッパ諸国に追いつくことだったのです。
日米和親条約の主な内容
日米和親条約は、全12条で構成されていました。どのような内容だったのか、主な内容を見ていきましょう。
開港と食料・物品の供給
第2条で、下田(しもだ)と箱館(はこだて、現在の函館)の開港が掲げられています。日米和親条約の締結に伴い、両港でのアメリカ船の食料調達や石炭などの燃料補給が可能になりました。ただし、貿易や緊急時以外の他港への来航は許可していません。
また第5条では、両港に居留しているアメリカ人の行動も制限しないとしています。下田では、およそ7里(約27.5km)の範囲であれば、自由に動くことができました。なお箱館は未定でした。
アメリカに対する片務的最恵国待遇の承認
第9条では、アメリカが不利にならないようにする、「片務的最恵国待遇(へんむてきさいけいこくたいぐう)の承認」も謳(うた)われていました。条約の締結以後、アメリカに許可しなかったことを他国に許可した場合は、自動的にアメリカにも適用するというものです。
片務的とは、一方だけが義務を負うことを指します。つまり、日本だけがアメリカに対して最恵国待遇をとるということです。
そのため日米和親条約は、不平等であるとされました。しかしその後、日本がイギリス・ロシア・オランダと締結した和親条約にも、同様に「片務的最恵国待遇の承認」が盛り込まれています。
日米和親条約が与えた影響
日米和親条約は、日本開国の第一歩であり、日本の歴史において重要な位置を占める条約です。後に締結された条約や、世の中の動きにも影響を与えました。どのようなことが起こったのか、具体的に見ていきましょう。
日米修好通商条約締結への布石となる
日米和親条約は、両国の交易に関するものではありませんでした。条文中では、日本側が供給した物品の対価や支払いは、その都度定めるとされています。
アメリカはもともと国交の樹立だけでなく、交易も希望していました。しかし日本側からの反発が予想されたため、同時に実行するのは難しいと判断したのです。
その希望が実現したのは1858(安政5)年でした。アメリカ初代駐日総領事ハリスの強い希望と圧力を受け、大老・井伊直弼(いいなおすけ)は孝明(こうめい)天皇の許しを得ないまま「日米修好通商条約」を締結します。
二つの不平等条約から動乱の時代が始まった
日米和親条約は、両国の和親を謳っていますが、平等といえる内容ではありませんでした。日米和親条約からつながる日米修好通商条約にも、不平等条文が含まれています。
例えば、第4条には「アメリカとの交易品にかかる関税の税率は両国の協定による」とありますが、これは日本に決定権がないということです(関税自主権の喪失)。
また、第6条では日本に居留しているアメリカ人が罪を犯した場合、アメリカの法律で裁かれる(領事裁判権の承認)としています。日本の法律が適用されない=治外法権(ちがいほうけん)を認めるということです。
両条約の締結は、幕府への不信や批判を招きました。開国に伴う混乱は「安政の大獄(あんせいのたいごく)」や「尊王攘夷(そんのうじょうい)運動」などの大きな社会の変化も生み出します。そのうねりが倒幕・明治維新へとつながっていったことを考えると、二つの不平等条約は、日本の歴史において重要な位置を占めるといえるでしょう。
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日米和親条約を改めて知ろう
日米和親条約は、日本にとって平等とはいえない内容でした。しかし、鎖国の終わりと日本の開国への第一歩となったことは間違いありません。
日米和親条約が締結されなければ、日本の開国や明治維新はもっと後の時代になった可能性もあります。現代日本へのスタート地点であると考えれば、重要な条約だったといえるでしょう。そのような視点で、あらためて日米和親条約の内容を見直してみるとよいかもしれません。
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構成・文/HugKum編集部