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「イジリで笑わせるとイジメにつながる」ことを小学生に教えたい
――オシエルズは漫才コンビとして小学校、中学校、高校など学校を訪問して笑いを提供しています。どんな内容なんですか?
矢島さん いろいろです。たとえば、数字を組み合わせて絵のようにしたのをプロジェクターに映して笑いをとる「算数の授業」、高校生などに進路のヒントを笑いで伝える「進路漫才®」など定番のネタもありますし、その場で生徒さんや先生たちと触れ合いながら、即興でやる漫才も。
また、小中学生にはネタやワークショップを通して、「イジメとイジリについて」や人権についても伝えています。人をイジって笑いをとることもありますが、笑われている側の気持ちを考える余裕がないと、それがいじめにつながることもありますよね。とくに小学生など、年齢が幼いうちに、笑われている側がどのような気持ちでいるかを伝えたいと思っています。笑わせ方を考えてもらうことが大事かなと思っています。
――おふたりが「お笑い」を意識したのは、ともに「イジメ」がきっかけだったとか。
矢島さん そうですね。私は小学校4年くらいのときに太っていまして。「デブ」って言われていやでした。
野村さん 僕は鹿児島ののどかな町で育ちまして。公立中学校に通っていたんですが、勉強がめちゃくちゃできたんです。イヤミなく受け取ってほしいんですが、めっちゃがんばっているわけじゃないのにできたんですよね。けれど、「あいつ、ガリ勉」みたいに言われて。

イジメをきっかけに「笑わせてやろう」と思えたふたり
――周囲は笑う、だからこそ本人はよけいつらいですよね……。
矢島さん まあ私たちはそれぞれ、自分なりに克服したというか。私の場合は当時大流行していた『ボキャブラ天国』で、太っていたり背が低かったりする芸人の体型をイジるネタがけっこうあって。「そうか、太っているのは武器かもしれない」と思うことにしたんですよ。つまり、イジられる前に、自分で自分をネタにして笑わせよう、と。
東京の浅草小学校の出身なんです。この学校、小堺一機さんが先輩でよく学校に来ていたり、3つ上にジグザグジギーの宮澤聡さんがいたりして。立地的にも近くに演芸場があるなど、笑いと縁がある環境で。それなら自分からみんなを笑わせてやろうと、小学校4年生のときにはグループを作って、学校でお笑いを披露したりしていました。
野村さん 私の場合は、アンタッチャブルのザキヤマさんの漫才をマネしたらめちゃくちゃウケたんです。「勉強できるのにおもしろい」みたいなね。
そんなふうに、一見こう見えるけれど、実は違う、みたいに「まわりからの目線を変えてやろう」みたいな気持ちが芽生えました。スポーツはあまりできないんですが、長距離なら勝てそうだと思って、長距離の練習をめちゃくちゃしてゼッタイに大会で1位になってやるって決めて1位になったり。意外性を演出するというか、そういうクセがありました。

高校1年でM-1グランプリ準々決勝進出の快挙!
――そこからおふたりはお笑いの道に?
矢島さん その後、私は私立の創価中学校に入りまして、今、吉本で作家をやっている「なんぶ」と知り合って、「ナンブヤジマ」っていうコンビを組んだんです。中学のときは文化祭でお笑いをやって、高校1年生のときにはM-1グランプリの3回戦、つまり準々決勝に進出したんですよ。下北沢とか中野とかでライブにも出ていました。
――高校生で!すごいですね。
矢島さん ふたりとも創価大学に進んで在学中には落語研究会に所属しました。落語研究会って言っても漫才やコントをやるメンバーが多くて、「ナンブヤジマ」は2007年の全日本お笑い選手権学生芸人No.1決定戦に優勝したんです。

教育学で「笑い」を研究するために国立大学に入学
野村さん 私も中2の頃には芸人になりたいと思っていました。でも地方都市なのでチャンスもなくて。教育学にも興味があったから、高校のときに、東京学芸大学に行こう、と決めました。教育学部に表現教育という学科があって、芸術表現活動の学びを通じて、高いコミュニケーション能力を身につける、というのがこのコースの目的です。ここで「表現」、つまり僕の場合は「お笑い」をコミュニケーション手段とすることを学ぼう、と。国立大学だから親も納得するだろうという気持ちでした。
こんな考えで入学してくる学生なんかほかにいないだろうと思っていたけれど、結構私と同じように何か芸術をやりたい、親とケンカせずやりたいからとりあえず国立大学、と思って入ってくる子が多かったですね。だからすごく居心地がよかったです。とはいえ、お笑いのサークルはなかったので、僕が創部しました。

――「笑いの教育」が共通点だったんですね。でもお生まれは矢島さんが1987年、野村さんが88年と1つ違い、大学も違うふたりがどうやって出会ってコンビを組んだのですか?
野村さん 僕らが大学時代、2007年とかそのへんは、お笑いって今よりもっとサブカル的な感じだったんですよ。もう少しでメインカルチャーになるくらい、というか。大学生でお笑いをやっている人も少ないから、知り合いになる。
矢島さん お互いに認識していたよね。大学のライブで私がMC、野村が出演者、みたいなこともありました。
就職に悩み、漫才も解消してピンになった同士が「笑い×教育」で意気投合!
矢島さん 当時、私は大学で教職をとって、中高一貫校で教員になろうと思ったんだけれど就職できず、ゼミの教授に「笑いの研究をしたらどうだ」と大学院への進学をすすめられて進学していました。教員養成に特化した「教職大学院」ってあるんですよね。「お笑いの研究は教育で重要、大学院に行ったら教員としての専門性も高まるよ」と言われて進学しました。
研究するっていうことは現場に足を運ぶことで、ピン芸人になることを決めました。大学時代の相方がプロになってコンビを解消してしまっていたので、ピンでやるしかない。とにかくライブに出て、どう笑いをとれるか実践も含めて大学院で研究をしていました。
野村さん ちょうどその頃、僕も3人で漫才をしていたのですが、うまくいかずに解散することになったんですよ。2012年に解散を決めて、2013年1月に解散しました。そのことを矢島に知らせたくらい、まあ知り合いだったんですよね。なんなら友達でもありました。ちょうどふたりのタイミングが重なったんですよね、「パートナーがほしい」って。
矢島さん 野村は漫才とは別に、知的障害がある人にボケとか突っ込みとかを教えていたんです。専門的に言えば即興演劇ですね。いい活動だなって思いましたね。それで、2013年に誘い合って、新宿のシェーキーズに行って、次はMUJIカフェ行ったんですよ。お互い、お笑いを研究したり、表現コミュニケーションを学んでいたり、大学で専門的に笑いを研究してきたわけで、方向性も似ていました。そこで言いました、「一緒にコンビやろう」って。

――野村さんは国立大学ですし、卒業後は大手企業に就職しようという気持ちはなかったんですか?
野村さん 就活はしていたんですよ。マスメディアの教育部門とか教育産業とかですね。だけど、志望動機を書いているうちに、「なんか違うな」って。マスメディアって現場でやっていることを広く伝える仕事じゃないですか。芸人は目の前で演じて笑顔になってもらう仕事。そうやって比べると、伝える仕事は自分にとって「やりたいことじゃないな」と。自分は現場で演じることしか興味ないんだなって。
それでいて、まあダウンタウンさんみたいになろうとしても自分には難しいって、挫折していたわけですよ。普通のやり方じゃダメだなと思っていたから、「教育も、お笑いも」ってなったときに、「これをふたりでやればなんとかなるかも!」と予感がして。いやー、矢島さんに声かけてもらってよかったですよ。
――お笑いをやりたい、でもそれまでのコンビは解散してしまった。大学で教育や表現を学んで、その研究もしてきた。そんなふたりが「お笑い×教育」で社会をいい笑いで包む活動を一緒にし始めます。これはきっと運命の出会いだったのですね!後編では、ふたりが学校を舞台にどんなパフォーマンスをしているのか、聞いてみました。
後編はこちらから
お話を聞いたのは
2013年結成。ボケの矢島ノブ雄とツッコミの野村真之介による
この記事を書いたのは
インタビューを中心に教育、子育て、医療、介護、食などのテーマで WEB・雑誌・書籍などの記事を執筆。お話を伺う方にたくさんの学びをいただいています。社会福祉士、法定成年後見人、中学校・高等学校教諭一種免許状、生涯学習2級インストラクター(栄養と料理)
写真(提供写真を除く)/深山徳幸