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幼稚園の頃から折り紙や工作に没頭し、勉強には興味がなかった
――小さい頃は、どんなお子さんでしたか?
人と目を合わせることができない子でした。仲間と遊ぶよりひとりで遊ぶことの方がラクだと感じていて、そして、自分の好きなことしかしない。折り紙が好きで、幼稚園の頃から中学ぐらいまで、ずっと折り続けていましたね。あと、紙とハサミとテープがあると、それで何かしら作ってずっと遊んでいられるような子でした。牛乳パックを積んで、幼稚園の屋根まで届くくらいのひとがたの人形を作ったり。
――外遊びは、どちらかと言えば苦手……?
砂場遊びは好きでしたよ。穴を掘ったりね。黙々と何かをするのが好きなんです。一度やり始めたら、「帰るよ」と言われるまでやり続ける。動きたくなくて先生が無理矢理手をひっぱるんだけれど泣き出してしまう、親も先生もすごく疲れていたと思います(笑)。
――そんなふうにひとつのことに集中したいなら、1時間ごとに国語とか算数とか授業が変わる小学校は、つらくなかったですか?
そもそも、5教科の中で好きなものがあんまりなかった。図工だけ好きだったけれど、それ以外は、成績がすごく悪かったし、そもそも席に座ってじっとしていられないんです。授業中あまりにもつらくて、逃げ出しましたね。
私のクラスには、特別支援級の子が教科によっては授業を受けに来ているんですが、その子が授業を受けるときには副担任が付いているんです。でも、その子はすごくおとなしかったんですよ。その子より私のほうが「危ない」っていうことで、副担任はその子そっちのけで僕の手を握っている。3年生くらいまではそんな感じでした。
自分の作ったもので遊んでくれた友達も4年生になると離れていった
――では、小学校はオリィさんにとっておもしろくなかったですか?
休み時間に工作をすると、自分の作ったものでみんなが遊んでくれたので、それが楽しかったですね。友人との接点は、主にそれでした。普通の鬼ごっことかをすると運動神経が悪くて負けるので、勝手に自分の都合のいいようにルールを作ると、それを楽しんでくれて、一緒に遊んだり。休み時間は楽しかったですよ。
でも、4年生くらいになるとみんな精神的にも成長するじゃないですか。そうすると、私が作ったものでみんな遊ばなくなってきた。階段の上からボールをころがして何がおもしろいのって。その頃からみんなとけっこうズレてきたんですね。
5年生から3年半、不登校に。学校に行けても保健室へ
――その後、小学校の終わりから中学まで、3年間ぐらい不登校になったんですね。
もともと体調を崩しやすいんですよ。だるくなったり疲れやすかったり、免疫力が低いんです。冷えるので短パンもはけなくて、小学校3年生くらいからジャージをはいて、それ以来、今に至るまで短パンをはいたことがないです。それもあって、登校しても、保健室にずっといることが多くなりました。
最初はそんな感じで保健室登校ができていたのですが、年齢が上がるにつれ、だんだん家から出られなくなってしまって。家にひきこもるようになりました。
父親は熱血教師、妹はスポーツ少女。しかもふたりとも同じ中学
――そういうオリィさんに対して、ご両親はどんなふうに接していらしたのですか?
うちの父親は同じ中学校の先生、しかも熱血教師だったんですよ。妹はスポーツが得意で私と真逆な感じだったんです。そんな父親と妹が同じ学校にいる、地獄みたいな状態でした。子どもが同じ学校にいると親は教科を持てない決まりになっているので、父親は生徒指導と特別支援学級の担当でした。で、特別支援学級が保健室の隣にあるので、定期的に保健室に来て、私は怒られる。
私が住んでいたのは奈良の小さな村社会で、
村の人たちはおおらかに見てくれていましたけれど、両親は大変だったと思いますね。
不登校で家にいる間はしゃべれず動けず黙って天井を見ているだけ
――お父さんやお母さんは、子どもは学校にいくものだと思っているわけですよね。
当時、世間自体がそういうものだと思っていましたから。不登校になったあたりで私の中で自我が芽生えてきたので、親に罪悪感があって、何もできなくなってしまった。「ありがとう」ともいえず黙って天井を眺めているだけ。うまくしゃべることもできなくなって、なにをするのもつらい。家に先生とかクラスメートとかが心配して訪問してくれるのもつらくて、もう放っておいてくれって思うけれど、みんな、放っておけないですよね。当時は、何をしてもつらい、周囲にただただ申し訳ないと思うしかなくてつらい、本当に何もかもつらかったです。
「生きていてくれさえすればいい」。母にそう言われて心底ほっとした
――周囲は、「学校は行くものだ」と思っているし、オリィさんも「行かなきゃ」って思うけれど、体も心もどうにも動かないんですね、それはつらいですね。
小学校のときは、親のすすめもあってときどき学校に行ったりしていたんです。でも行けばお腹が痛くなるし、ほとんど保健室。教室にいるときは苦痛でした。
小学校の頃は、そんなふうに両親も学校に戻そうみたいな感じでした。フリースクールを探したりとか相談所に連れて行ったりとかもしていましたね。
でも、だんだん何もできなくなって、折り紙もせずに天井を見つめ続けている私を見て、
「生きてさえくれていればいい」と思ったのでしょうね。物作りしているときだけは目が輝いているから、最後は「楽しそうにしているのがいちばん。学校には行かなくていい」と、母が言ってくれて。父もだんだんそう思ってくれて、すごく楽になりました。
母は本当によく献身的に教育してくれたと思いますし、
出会いと憧れがあれば人は変われる。高校受験のために学校に復学
――中2くらいからは学校に行くようになったのですね。そのきっかけは?
やりたいことがみつかったから、というのが大きいですね。それは中学校のとき。母は、学校に行っていない私に、いろいろな機会を与えようと考えてくれていて、「折り紙ができるんやったら、ロボットもつくれるはず。ロボット大会に申し込んでおいたから」と言われまして。
当時、地元の科学館が大好きで、そこに折り紙の本があったので、
出場した地区大会で優勝。1年後の全国大会で準優勝。このとき人生で初めて努力が報われた喜びと、優勝できなかった悔しさを味わいました。そして、
それまでまったく勉強して来なかったので、とにかく猛勉強しました。人生で一番勉強しましたね。ものすごく久しぶりに学校に行ったわけですが、まったく躊躇はなかった。単純に学校に行けば勉強が進む、受験に有利だと思えたんです。塾にも行きました。「進学コース」という有名高校を目指すコースの、一番下のクラスでした。
―それまでずっとがまんを重ねて学校に行っていましたが、まさに自分から学校に行き始めたということなのですね。
「がまん強い」ことを求めると、人は「そういうもんだ」という言葉を使い始めるんです、その言葉はきらいです。「受験勉強はつらいもんだ、おかあさんもがんばったんだからあなたもがんばりなさい」みたいな。
そもそも文明や発明は、
だから自分も今、
そんな中から、大事な人との出会いがあり、
後半の記事では、高校、大学時代を経て「分身ロボットカフェ」を出店するまでの道のりをお話いただきます。
プロフィール
吉藤オリィ(よしふじ・おりぃ)さん
本名吉藤 健太朗。自身の不登校の体験をもとに、対孤独用分身コミュニケーションロボット「OriHime」を開発。この功績から2012年に「人間力大賞」を受賞。 開発したロボットを多くの人に使ってもらうべく、株式会社オリィ研究所を設立。自身の体験から「ベッドの上にいながら、会いたい人と会い、社会に参加できる未来の実現」を理念に、開発を進めている。ロボットコミュニケーター。趣味は折り紙。2016年、Forbes Asia 30 Under 30 Industry, Manufacturing & Energy部門 選出。近著にミライの武器 「夢中になれる」を見つける授業 (サンクチュアリ出版)。2021年夏、日本橋に、家にいるパイロットがOriHimeを操作して店舗の来訪者に接客する『分身ロボットカフェDAWN』をオープン。
取材・文/三輪 泉 撮影/五十嵐美弥