前編では、既存の学校システムからドロップアウトしてしまった若者を対象に個別指導教育を行っているキズキグループ(株式会社キズキ/NPO法人キズキ)の代表を務める安田祐輔さんの苦難の小学生時代を振り返った。今回は、人生を変えるきっかけとなった2つのエピソードをお届けする。
▼不良の仲間入り
親元を離れるために、自ら希望して全寮制の私立中学校に入学した安田さん。しかし、その後の生活が好転することはなかった。もともとの発達障害に重ねて、睡眠障害も併発。そんな特性にいじめが大きく影響し、夜に物事を考え出すと脳がフル回転して眠れなくなり、学校で居眠りするようになった。授業がつまらないとか、教師に対する反抗ではなく、電池が切れたようにガクッと眠りに落ちてしまうそうだ。しかし、学校側はそんなことを知る由もなく、単なる問題児として扱われるようになっていく。
そのうちに小学生時代と同じく同級生との関係がうまくいかなくなって、退学。既に両親が離婚していたこともあり、父方の祖母の家に住み、その地域の公立中学校に通い始めた。ところが祖母とも折り合いが悪く、言い争いが絶えなかった。
そのうちに安田さんの髪の色は金髪になり、いわゆる「不良」とつるむようになった。祖母と口論をして、出ていけ! と言われた時には、公園で野宿をしたり、友人の家を泊まり歩いて、1週間ほど帰宅しなかったこともあるという。
こう書くと、ひとりの少年の人生が悪い方向に転がり落ちているように感じるかもしれないが、本人にはその自覚はなかった。
「僕が住んでいた地域は、片親なんて当たり前だし、親が何度か離婚してるのもよくあること。両親が小学校の時に蒸発しちゃったっていう暴走族の仲間がいて、さすがにそれはかなりショックでしたけどね。僕も親に隠し子がいたり、(父親が再婚した後)継母から虐められたり、いろいろあってきつかったけど、自分がそこまで特別だとは思っていませんでした」
▼不条理な社会を変えたい
高校に入っても生活は変わらなかった。大学に行こうと思ったのも、消去法だった。周りの仲間たちは、高校を出たら就職するか、フリーターになるかの二択。でもそれは安田さんには難しかった。学校の成績が悪いから待遇の良い企業に就職するのは難しい。アルバイトをしても、発達障害の影響で周りの人と協調して仕事ができない。単純作業に飽きると続けられない。就職もアルバイトもできないなら大学に行くしかない、という発想だ。
大学に行くには何を学ぶか決めなくてはならないが特にやりたいこともない。どうしようかと迷ううちに、転機は予想もしない方向から訪れた。アメリカがテロに襲われた911、その後に続くアフガニスタンへの爆撃。
「アメリカに翻弄されているアフガニスタンの人たちと、自分勝手な親に振り回されながら生きている自分が、まったく同じように見えたんです」
2001年秋、「この不条理な社会を変えたい」と強く願った高校3年生の安田さんは、それから猛勉強をスタート。2年の浪人の末、国際基督教大学(ICU)に合格した。
大学では、イスラエル人とパレスチナ人の学生12名を日本に招いて平和会議を主催する「日本・イスラエル・パレスチナ学生会議」に参加した。これは両国の学生とともに1カ月合宿生活を送るという学生NGOの活動で、持ち前の集中力を発揮してブルドーザーのように走り回った。2年生の時には代表に就任した。
▼怠け者の決意
誰かがおぜん立てしてくれるものではないから、招待する学生の航空券の費用を集めるためにいろいろな助成金を探し、財団をまわった。メディアに取り上げてもらうために、ひたすら電話した。無事に合宿が終わり、学生が帰国する際には、両国の若者と泣きながら別れを惜しんだ。その時、「自分が動くと社会が少し変わる」と実感できたと振り返る。
「当時は発達障害の影響が強くて、自分に反対する意見はすべて却下する、みたいなタイプだったので、合わなくて辞めてく人もたくさんいました。だけど、必死に努力すればなんとかなるって思えるようになって」
この活動は高く評価され、安田さんは活動の幅を広げた。そのなかで、人生を考えるきっかけとなったのがバングラデシュでの経験だ。安田さんはベンガル語を学び、合計1年ほど現地に滞在して、娼婦に密着した。
「僕は怠け者で、本当はずっと一日ゲームとかして過ごしていたいんですよ。大学に行くと決めた時に、それを超えるぐらいやりがいのある、意味のあることをしよう、それだけやろうと決めました。学生NGOの活動を経験してから、僕にとって意味のあることは『人間が本当に幸福になること』でした。でも、どうしていいかわからない。だとしたら、最貧国のなかでも最も虐げられている人たちと生活してみたら、自分は何をすべきか見えるじゃないかと思ったんです」
途上国を経て、「個人の尊厳を守ることをしたい。」と思った。引き続き、途上国に関わる何かをしたいと思った。しかし就活の時期、「新卒切符」を捨てることも怖かった。
そんな理由が混ざり合い、2009年の春、総合商社に就職した。
後編につづく
取材・文/川内イオ
1979年生まれ。大学卒業後の2002年、新卒で広告代理店に就職するも9ヶ月で退職し、03年よりフリーライターとして活動開始。06年にバルセロナに移住し、主にスペインサッカーを取材。10年に帰国後、デジタルサッカー誌、ビジネス誌の編集部を経て、現在はジャンルを問わず「規格外の稀な人」を追う稀人ハンターとして活動している。記事やイベントで稀人を取材することで仕事や生き方の多様性を世に伝えることをテーマとする。
撮影/五十嵐美弥