板垣退助は何をした人物? 自由民権運動や生涯の功績を学ぼう【親子で偉人に学ぶ】

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板垣退助は、幕末から明治にかけて活躍した政治家です。彼が主導した自由民権運動とセットで覚えている人も多いでしょう。板垣退助の生い立ちや人物像、後世に残した功績について、名言やエピソードを交えながら解説します。

板垣退助とは

「板垣退助(いたがきたいすけ)」は、明治維新にかかわった多くの政治家の中でも、特に有名といってよい人物です。その肖像画は、お札のデザインにも採用されています。

幕末に活躍した政治家

退助は、土佐藩士の家に生まれ、明治維新後は政府の中心人物として活躍した政治家です。

維新の立役者である、薩摩藩や長州藩の出身者が権力を独占するなか、国民の政治参加を求めた「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」を主導し、国会の開設に尽力しました。

彼の功績は高く評価され、国会議事堂の広間には、大隈重信(おおくましげのぶ)や伊藤博文(いとうひろぶみ)と並んで銅像が建てられています。昭和時代には、肖像画が「五十銭札」や「百円札」のデザインとして使われていました。

なお、五十銭札はすでに失効していますが、百円札は現在も使えます。

板垣退助の肖像が描かれた「B百円券」は、1953(昭和28)年に発行された。裏面には、退助にちなんで国会議事堂が描かれている。また1957年の百円銀貨の発行後も、地方では根強い紙幣需要があったため、並行して流通した。1974年、紙幣発行は停止される。

板垣退助の生涯を紹介

板垣退助は、自由民権運動以外にも、武士や閣僚として多くの功績を残しています。生い立ちから晩年までの生涯を、順に見ていきましょう。

1837年に、土佐で生まれる

退助は、1837(天保8)年に土佐藩(現在の高知県)の上士(じょうし)・乾正成(いぬいまさしげ)の嫡男として誕生します。幼名は「猪之助(いのすけ)」といいました。

上士とは、身分の高い藩士のことで、退助も上士の跡継ぎとして学問や武道に励む日を送ります。後年、藩主・山内容堂(やまうちようどう)に「大政奉還」を進言する後藤象二郎(しょうじろう)とは、幼なじみの間柄です。

退助は、学問よりも武道に熱心で喧嘩っ早く、20歳のときには喧嘩が原因で4年間の謹慎生活を命じられるほどでした(1856)。このときに下士(かし、身分の低い藩士)や庶民と交流した経験が、自由民権運動に目覚めるきっかけの一つとなりました。

戊辰戦争へ参加

1868(慶応4)年、退助が31歳のとき、明治新政府軍と旧幕府軍との間で「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が起こります。退助は、土佐藩の主力部隊「迅衝隊(じんしょうたい)」を率いて、新政府軍に加わりました。

その際、退助は、給料制や従軍医師団の同行などの画期的なシステムを迅衝隊に取り入れます。また、日光(にっこう)では敵将らを説得して、「東照宮(とうしょうぐう)」などの文化財を守りました。

板垣退助の銅像(栃木県日光市)。戊辰戦争時、日光山に立てこもった幕府軍・大鳥圭介らに、徳川家ゆかりの二社一寺を戦火にさらすことを避けるべく、退助は説得した。その功績を讃え、昭和4年に建立された。現在、金谷ホテル前の銅像は昭和42年に再建されたもの。

 

退助の知略と配慮が功を奏し、迅衝隊は各地の戦いにおいて大活躍します。甲府では、近藤勇(こんどういさみ)率いる甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい、元新選組)をたった2時間で破りました。

なお、退助はこのときに、姓を板垣に変えています。戦国武将・武田信玄の重臣「板垣信方(のぶかた)」が乾家の遠い先祖だったことが、改姓の理由です。

自由民権運動を主導

迅衝隊が会津藩と戦ったとき、退助は領民が藩を見捨てて我先にと逃げ出す様子を目の当たりにします。政府と民衆が、心を一つにしなければ国は弱くなると実感し、民主的な政治について考えるようになりました。

戊辰戦争後、新政府の一員として活動していた退助は、大久保利通(としみち)や岩倉具視(いわくらともみ)らとの間に起こった政争に敗れ、1873(明治6)年に政府を去ります。

その翌年、後藤象二郎らとともに政治結社を立ち上げ、政府に対して国会の開設を要求する「民撰議院設立建白書」を提出しました。

退助らの主張は国民に支持され、全国的に「自由民権運動」の気運が高まります。退助は運動の主導者として活動を続け、ついに政府から国会開設の約束を取り付けることに成功しました。

内務大臣として入閣

1896(明治29)年、退助は第2次伊藤博文内閣の内務大臣として入閣し、国政に復帰します。1898年には、大隈重信と協力して「憲政党(けんせいとう)」を組織し、初の政党内閣を誕生させました。

ここでも退助は内務大臣を務めますが、4カ月ほどで辞職し、そのまま政界を引退します。引退後の退助は、新聞の発行や執筆活動を通して、社会問題の解決に精力的に取り組んでいます。

生涯を国のために尽くした退助は、1919(大正8)年に肺炎で亡くなりました。

板垣退助の人柄がわかる名言

板垣退助は、後世に語り継がれる有名な言葉を残しています。彼の思想や人柄を象徴する、二つの名言を紹介します。

板垣死すとも自由は死せず

「板垣死すとも自由は死せず」は、退助が岐阜で演説中、反対派の青年に刺されたときに発したとされる言葉です。

事件を報道した新聞に、退助が「吾死するとも自由は死せん」「自由は永世不滅なるべき」などと言ったと記載され、後に、このように表現されるようになりました。

血を流しながらも、自由への思いを口にする退助の強い意志を感じさせる名言です。ただし、近年では、退助自身は、この言葉を発していないのではないかと考えられています。

「犯人を取り押さえた人物が発した」「医者を呼んでくれと言った退助の土佐弁を、記者が聞き間違えた」「単に新聞社が大げさに報じた」など、さまざまな説が浮上しており、真相は不明です。

祇園寺(東京都調布市)。深大寺を創建した上人が、8世紀初頭に開山。明治時代は、多摩地域が自由民権運動の拠点であった。当時の住職が殉難者の菩提を弔った際、板垣退助も参列し自由の松を植樹。「板垣死すとも自由の松はすくすくとのびている」が大木の説明。

私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ

演説中の襲撃事件の後、退助を刺した青年・相原尚褧(あいはらなおふみ)は、北海道の刑務所に収監されます。数年後に保釈された相原は、退助のところに謝罪に訪れました。

このとき、退助は、相原の行動を「国家のためを思ってしたことだから」と許し、「私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ」と言っています。

国民それぞれが自分たちの未来を考え、自由に行動できる国家づくりを目指していた退助の、覚悟がよくわかるエピソードです。

多くの逸話を残す板垣退助

板垣退助は生涯の中で、武士・政治家・活動家とさまざまな顔を持ち、多くの逸話を残しました。途中で命を狙われても、自由な国づくりへの情熱は衰えず、自分の意志を貫いています。

現在、私たちが選挙を通して政治に参加できるのも、退助のような政治家がいたおかげです。国会中継や選挙のニュースを見るときには、「自由民権運動」にこめられた先人の思いを子どもに教えてあげるとよいでしょう。

もっと知りたい人のための参考図書

小学館版  学習まんが  はじめての日本の歴史12「近代国家への道」

小学館版  学習まんが  少年少女日本の歴史18「近代国家の発展」

中公新書 「板垣退助 自由民権指導者の実像」

ミネルヴァ書房  日本の歴史人物伝「板垣退助 国民参加の政治をめざして」

学陽書房  人物文庫「板垣退助 孤雲去りて」(上・下)

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構成・文/HugKum編集部

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