北条早雲とは?「最初の戦国将軍」「下剋上の先駆け」の生涯・逸話を紹介【親子で歴史を学ぶ】

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北条早雲は、戦国乱世の気配が迫る室町時代の後期に活躍した武将です。初めて下剋上を成し遂げた人物として有名ですが、生涯の多くは謎に包まれています。戦国武将の先駆者といわれる北条早雲の人物像を、逸話や名言を交えて紹介します。

北条早雲とは

「北条早雲(ほうじょうそううん)」の名前を聞くと、鎌倉幕府の執権・北条氏を連想する人も多いでしょう。はじめに、早雲とは何者なのか、北条姓の由来も合わせて紹介します。

最初の戦国大名と呼ばれた武将

早雲は、戦国時代に関東地方を支配していた大名・北条氏の祖です。

室町幕府に仕える役人から、有力大名・今川氏の家臣を経て相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)を平定し、大名となりました。

北条氏はその後、武蔵国(むさしのくに、現在の東京都や埼玉県、神奈川県北部)まで領地を拡大し、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に滅ぼされるまでの約100年間、5代にわたって繁栄を続けます。

一介の役人にしか過ぎなかった人物が、実力で大名にまで登りつめたことから、早雲は下剋上(げこくじょう)で成り上がる戦国大名の先駆けといわれています。

鎌倉幕府の執権を務めた北条氏との関係

現在は、すっかり「北条早雲」で定着していますが、最初からこの名前だったわけではありません。早雲の本名は「伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)」で、「早雲」は出家後の名前「早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)」から来ています。

姓を、伊勢から北条に変えたのは、早雲の息子・氏綱(うじつな)です。

この頃の伊勢氏は、関東で実権を握る扇谷上杉(おうぎがやうえすぎ)氏から「他国の凶徒」と罵られていました。伊勢は西国(さいごく)の地名であり、関東の武士にとっては、よそ者のイメージがあったのです。

一方の北条は、早雲が最初に支配した伊豆の地名で、関東でもなじみがあるうえに、鎌倉幕府の執権・北条氏にもあやかれます。氏綱は関東支配の正当性を主張するために、姓を北条に変えたのです。つまり、「後北条氏(ごほうじょうし)」の誕生となります。

北条早雲の生涯

北条早雲は、後に下剋上の代表といわれただけあり、波乱万丈の人生を送っています。誕生から晩年までの、生涯を見ていきましょう。

武士の名門に生まれ、室町幕府に仕える

早雲の生年や出身地には諸説あり、身分の低い浪人とされていた時期もありました。しかし、近年では、室町幕府の有力家臣・伊勢氏の出身とする説が有力です。

早雲は1450(宝徳2)年頃に、備中国(びっちゅうのくに、現在の岡山県)の高山城主・伊勢盛定(もりさだ)の息子として生まれたといわれています。元服後は、室町幕府8代将軍・足利義政(よしまさ)の弟の義視(よしみ)に仕えました。

しかし、1467(応仁元)年に「応仁(おうにん)の乱」が起こると、義視は伊勢に逃れることになります。その後、早雲は義視の元を去り、姉が嫁いでいた駿河国(するがのくに、現在の静岡県)の守護大名・今川家の家臣となりました。

今川家の家督相続争いで手柄をたてる

駿河に移って数年後、今川家の当主・義忠(よしただ)が戦死してしまいます。

義忠には龍王丸(たつおうまる)という男児がいましたが、まだ6歳だったので、分家筋の小鹿範満(おしかのりみつ)との間で後継者争いが起こりました。

早雲は甥(おい)である龍王丸に味方し、範満側に「龍王丸が大人になるまで、範満が家督(かとく)を代行してはどうか」と提案します。範満が提案を受け入れて争いが収まると、早雲は今川家を出て、室町幕府に再就職しました。

しかし、いつまでたっても、範満は龍王丸に家督を譲りません。見かねた早雲は駿河に戻り、範満とその一族を武力で倒してしまいました。晴れて今川家当主となった龍王丸は、早雲の手柄をたたえて城を与えます。

なお、龍王丸は元服してからは「氏親(うじちか)」と名乗りました。彼は、後に「桶狭間(おけはざま)の戦い」で織田信長に倒される今川義元(よしもと)の父親です。早雲の活躍がなければ、義元は誕生せず、歴史も大きく変わっていたかもしれません。

下剋上で伊豆の主に

早雲が、龍王丸から与えられた「興国寺城(りゅうこくじじょう)」は、現在の静岡県沼津(ぬまづ)市にありました。

その頃、すぐ隣の伊豆を支配していた足利政知(あしかがまさとも)が亡くなります。政知は「堀越公方(ほりごえくぼう)」と呼ばれる、足利将軍家の一族です。

政知の長男・茶々丸(ちゃちゃまる)は素行に問題があったため、母親の違う次男が後継者とされていました。しかし、茶々丸は、次男とその母親を殺害して、無理矢理当主の座に就いてしまいます。

その数年後、殺された次男と同じ母から生まれた三男・義澄(よしずみ)が、室町幕府11代将軍に就任します。義澄は母と兄のかたきをとるため、元幕臣の早雲を頼り、茶々丸を討つように命じました。

早雲は1493(明応2)年に伊豆に討ち入り、茶々丸を自害に追い込んで将軍の期待に応えます。さらに、将軍から何の褒美(ほうび)もないことを口実に、勝手に伊豆の領主となりました。

事情はともかく、一介の家臣に過ぎない人物が将軍の一族を倒して領主となったこの事件は、世間を驚かせます。早雲の伊豆討ち入りは、下剋上の象徴として長く語り継がれることになりました。

小田原城を拠点に、相模を統一

伊豆を手に入れた早雲に、さらなる領土拡大のチャンスが訪れます。当時の関東には、扇谷上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏の二大勢力がありました。

このうち、扇谷上杉氏で当主が亡くなる事件が起こり、さらに大森氏や三浦氏といった扇谷上杉氏側の一族でも、相次いで当主が代わります。

早雲はこの混乱に付け込み、手始めに大森氏の居城・小田原(おだわら)城を奪取しました。その後、約4年の歳月を費やして三浦氏を滅ぼし、ついに相模国統一に成功します。

史上初の下剋上を成し遂げ、2カ国を支配する大名に上りつめた早雲は、1519(永正16)年に伊豆の韮山(にらやま)城でその長い生涯を終えました。享年88歳でした(64歳説もあり)。

現在の小田原城(神奈川県小田原市、空撮)。15世紀末、早雲が小田原城主となり、以後、氏綱・氏康・氏政・氏直の五代にわたって約100年、関東に覇を唱えることとなった。1870(明治3)年に廃城となるが、1960(昭和35)年、90年ぶりに天守が復興した。

北条早雲の功績

北条早雲は領国に対して、善政を行ったことでも知られています。伊豆や相模の領民は、他国の領民からうらやましがられたとの逸話もあるほどです。

早雲が残した主な功績を見ていきましょう。

民に寄り添う政治

小田原城を奪った後、早雲は検地を実施して税率を「四公六民(しこうろくみん)」と定めました。収穫の4割を年貢として納めさせ、残りの6割は農民の取り分としたのです。

当時の税率は、五公五民や六公四民が一般的だったため、四公六民は領民に大変歓迎されました。

また、早雲は年貢を取り立てる役人が不正を働かないように、北条家当主しか使えない「虎の朱印」が入った証明書を発行しています。

無理のない税率と不正防止対策が功を奏し、年貢の取りこぼしが減って国は豊かになります。早雲の死後も、彼の政策はそのまま引き継がれ、北条氏の繁栄につながりました。

今も伝わる「早雲寺殿廿一箇条」

「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」は、早雲が国を治めるための基本方針として、家臣に日々、伝えていた訓示をまとめたものです。

早寝早起きや火の用心といった生活習慣から身だしなみ、仕事への向き合い方まで、簡潔で分かりやすい文章でまとめられています。

戦国時代、多くの大名が「分国法(ぶんこくほう)」と呼ばれる独自の指針を作成して、領地の統治に生かしていました。「早雲寺殿廿一箇条」は、分国法のはしりともいわれています。

小田原市の公式サイトには、全文の現代語訳が掲載されています。今でも通用する教訓が多いので、興味がある人は読んでみるとよいでしょう。

小田原市 | 早雲寺殿二十一箇条

北条早雲にまつわるエピソード

北条早雲には、自らの才覚で道を切り開いた人物らしいエピソードがいくつか伝わっています。小田原城の攻略にまつわる、有名なエピソードを二つ紹介します。

ネズミと虎の夢

小田原城を奪取する少し前、早雲は現在の静岡県三島市にある神社・三嶋大社(みしまたいしゃ)に参詣して武運長久を祈りました。

三嶋大社(静岡県三島市)。早雲をはじめとする「後北条氏」の保護を受け、造営の支援も行われた。現在の社殿は寛永年間の徳川家光が造営したものを踏襲し、1866(慶応2)年に再建された。国内有数の権現造り社殿で、写真右が「舞殿(ぶでん)」、奥が拝殿。

 

その晩、早雲は小さなネズミが2本の杉の大木をかじり倒し、虎に変身する夢を見ます。

早雲はこの夢を、自分が関東の覇者となる予言に違いないと思い、喜びました。早雲は子年(ねどし)の生まれだったので、ネズミを自分に、2本の大杉を扇谷と山内の両上杉氏に見立てたのです。

早雲は吉夢を見せてくれた三嶋大社に感謝して、神馬(しんめ)・太刀(たち)・鎧兜(よろいかぶと)を奉納しました。

小田原城での「火牛の計」

「火牛の計(かぎゅうのけい)」とは、早雲が小田原城を奪取する際に用いたとされる計略のことです。江戸時代の創作ですが、早雲の大胆さを象徴するエピソードとして伝わっています。

当時の小田原城は、現在の場所から少し離れた高台に立つ、堅固(けんご)な山城(やまじろ)でした。早雲はまず、城主の大森藤頼(おおもりふじより)に贈物をして近付き、友好関係を築きます。

十分に仲良くなった頃、早雲は藤頼に「鹿狩りのために城の裏山に勢子(せこ、獲物を追い立てる係)を入れさせて欲しい」と申し出ます。

藤頼の許可を得た早雲は、数百人の兵を勢子に仕立て、1,000頭の牛とともに送り込みました。周囲が暗くなった頃、兵は牛の角に松明(たいまつ)を付け、一斉に城へ向けて走らせます。

無数の松明を見て大軍が押し寄せたと勘違いした藤頼は、城を捨てて逃亡し、一夜にして小田原城は早雲のものとなりました。

北条早雲銅像(神奈川県小田原市)。小田原駅西口前に立つ、騎上の早雲像の隣には、松明を付けた「火牛」たちも走っている。この典型的な城盗り物語は、土石流説、津波説など諸説ある。嫡男・氏綱は早雲の死の2年後、箱根町に菩提寺・早雲寺を創建した。

戦国大名のお手本となった北条早雲

北条早雲の関東進出を境に、日本各地で下剋上の機運が高まり、多くの戦国大名が生まれます。かつて早雲が仕えた足利将軍家も、守護大名の今川家も、戦国の覇者織田信長に滅ぼされてしまいました。

その信長も家臣の謀反(むほん)で亡くなり、農民出身の豊臣秀吉が天下人(てんかびと)となります。天下統一の仕上げとして、秀吉が小田原城に攻めてきたとき、早雲は草葉の陰で何を思っていたのでしょうか。

もっと知りたい人のための参考図書

ポプラ社 コミック版日本の歴史「戦国人物伝 北条早雲」

小学館コミック ゆうきまさみ「新九郎、奔(はし)る!」1~10巻

リイド社 永井豪(ダイナミック・プロ)「北条早雲」

朝日新聞出版 火坂雅志・伊東潤「北条五代」

角川書店 南原幹雄「謀将  北条早雲」(上・下)

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構成・文/HugKum編集部

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