与謝野晶子とはどのような人物?
与謝野晶子について「国語で習った」という人も多いのではないでしょうか? 学生時代を振り返りながら、晶子はどのような人物だったのかを思い出してみましょう。
情熱的な作風で知られる歌人・作家
晶子は、明治から昭和にかけて活躍した女流歌人・作家です。生涯を通じて積極的に作歌に励み、その数は5万首にも上るといわれています。
歌風は、官能的・情熱的と評されることが少なくありません。与謝野鉄幹との結婚後に発表された「みだれ髪」には、ストレートな恋愛感情が連ねられており、当時の文学界・社会に大きな衝撃を与えました。
その他、反戦の心が込められた「君死にたまふことなかれ」という詩も、晶子を語る上で忘れてはならない作品です。作家としては、古典の名作「源氏物語」を二度も現代語訳し、文学史上に大きな功績を残しました。
女性の自立・地位向上にも積極的で、女性運動の支援も積極的に行っています。
与謝野晶子の生涯
女流歌人・作家・女性活動家と、与謝野晶子は生涯を通じて精力的に活動しました。晶子の生涯を追い掛けてみましょう。
誕生から歌人デビューまで
晶子は、1878年に大阪府堺市で生まれました。生家は老舗の和菓子屋を営んでおり、晶子は3番目の子どもです。
幼いころから書物を好み、父親の蔵書を読み耽っていたといわれます。読書の幅は広く、源氏物語などの古典から歴史書まで、さまざまな書物に親しんでいました。
女流歌人としてのキャリアをスタートさせたのは1895年で、晶子が堺女学校補習科を卒業した翌年です。「文芸倶楽部」に短歌が掲載され、晶子は翌1896年から本格的な作歌活動を始めました。
「明星」に短歌を掲載
1900年に東京新詩社機関誌「明星」が創刊され、第2号より晶子の短歌が掲載されるようになります。
晶子は創刊者である与謝野鉄幹と出会い、恋に落ちました。1901年には鉄幹と結婚し、同年に歌集「みだれ髪」を上梓しています。鉄幹との恋愛模様を生々しく歌った歌集は大きな反響を呼び、社会現象を巻き起こすまでとなりました。
みだれ髪がことさら大きな注目を集めたのは、その表現があまりにもストレートかつ大胆だったためです。当時はまだ、自由恋愛は一般的なものではありませんでした。歌集は大ヒットしたものの、快く思わない人も多かったのです。
1904年には、弟を戦地に送る不安と悲しみを歌った「君死にたまふことなかれ」という長詩を発表しました。戦時体制下で反戦の意志を強く主張したこの詩も、大きな論争を巻き起こしています。
夫と12人の子どもたち
晶子は鉄幹と恋に落ちて結婚しましたが、結婚生活が常に順風満帆だったわけではありません。鉄幹は非常に恋多き人で、結婚後もさまざまな女性と浮名を流しています。
1908年に明星が廃刊となり鉄幹が失職してからは、一家の家計は晶子が担うこととなりました。
とはいえ、2人の仲が悪かったということではありません。晶子が作品を発表するときは、鉄幹に批評してもらっていたそうです。後に晶子は、鉄幹について「不平など持ったことはない」と敬愛の念を示しています。
晶子と鉄幹の間には、12人もの子どもが生まれました。晶子は家族との時間を何よりも大切にしていたといわれ、主張の強い現代的な女性というイメージとは裏腹に、実際は家族思いの良き妻・母であったようです。
※子どもの人数に関しては、11人や13人など諸説あり
晩年と著作について
女流作家を代表する存在となった晶子は、歌集・詩集・小説集などを積極的に手掛けます。著作は数十冊にも上り、数々の名作・名著が生まれました。
中でも晶子の功績としてしばしば取り上げられるのが、源氏物語の現代語訳です。1909年、実業家・小林政治の勧めによって、晶子は源氏物語の現代語訳を始めます。1912年には1冊目が刊行されたものの、1923年の関東大震災で原稿は全て焼失してしまいました。
晶子は大きな喪失感に襲われましたが、諦めることはありませんでした。その後も現代語訳に取り組み、1938~1939年についに「新訳源氏物語」が刊行されます。
この頃、すでに鉄幹は亡くなっていました。晶子も1940年に脳溢血で倒れ、1942年には夫のもとへと旅立っています。
与謝野晶子の功績
文学史にその名を刻む与謝野晶子の功績は、短歌や長詩のみに留まりません。社会的な側面から、晶子の功績をチェックしてみましょう。
文化学院を創立
文化学院とは、1921年に西村伊作が創設した学校です。晶子は創設に深く関わり、自らが教師として教鞭に立ちました。
文化学院の主旨は、芸術や文学を通した自由な人間教育です。中学部では日本初となる、男女共学スタイルが選択されました。
男性中心社会であった当時の日本において、男女が平等に学べる学校は非常に希有な存在だったといえます。晶子は文化学院を通し、女性の社会進出や古い慣習にとらわれない自由な文化人の育成に貢献しました。
女性の自立を提言
晶子は、女性の自立・権利獲得のための運動にも積極的だったことで知られています。1918年には平塚らいてうらと「母性保護論争」を展開し、社会全体に女性のあり方について考えるきっかけを与えました。
「女性は社会から保護されるべき」という平塚らいてうに対し、晶子は女性を弱者と決めつける考え方を批判します。女性は自らの力で立ち上がり、各々の未来を切り拓いていくべきだと主張しました。
その他、女性への参政権付与を求める「婦人参政権運動」においても、晶子は「婦選の歌」を作って応援しています。女性たちの地位が低かった時代、戦う女性たちにとって晶子の存在は非常に頼もしいものだったに違いありません。
多くの歌集を刊行した与謝野晶子
与謝野晶子は、明治・大正・昭和にかけて多くの作品を残しました。大胆で情熱的な歌風は驚きを持って受け入れられ、多くの人に支持されることとなります。
12人もの子どもを抱えつつ一家の大黒柱として働いた晶子のたくましさは、現代女性にも通じるものがあります。歌人や作家としてだけではなく、女性の地位向上のための運動家として力を発揮したことからも、晶子のたくましさがわかるでしょう。
晶子の生き方に興味を持った人は、まずは「みだれ髪」や「君死にたまふことなかれ」などといった有名な作品からチェックしてみてはいかがでしょうか。
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構成・文/HugKum編集部