マゼランって何をした人? 世界史で見る大航海時代の基本知識を紹介【親子で歴史を学ぶ】

マゼランは、大航海時代を代表する航海者であり探検家です。マゼランが成した偉業の詳細について、当時の背景を含めてチェックしていきましょう。同じく大航海時代の航海者、コロンブスとヴァスコ・ダ・ガマについても紹介します。
<画像はマゼランのイメージ画(左)と、フィリピン・マクタン島のマゼラン記念碑>

マゼランとは、どんな人物?

「マゼラン」について、「名前は知っているけれど、詳しいことはよくわからない」という人は多いのではないでしょうか。まずは、マゼランがどのような人物だったのかについて、時代背景とあわせて紹介します。

大航海時代の航海者であり探検家

マゼラン(1480〜1521)は、「大航海時代」を代表する航海者・探検家だった人物で、フルネームを「フェルディナンド・マゼラン」といいます。

1480年に、ポルトガルで生まれたとされているマゼランですが、1505年にインドへ向かうアルメイダ提督の艦隊に、25歳で参加するまでの詳しい経歴はわかっていません。

時が過ぎて1517年、報酬交渉が原因でポルトガル王の不興を買ったマゼランは、ポルトガルからスペインへと拠点を移します。その後は、スペイン皇帝カルロス一世のもとで、マゼラン海峡の発見や、史上初の世界一周航海の立役者となるなど、数々の偉業を成し遂げました。

なお、太平洋(Pacific Ocean)やパタゴニアの「名付け親」もマゼランだとされています。

「発見のモニュメント」(ポルトガル・ベレン)。リスボンの西7㎞のテージョ川を見下ろす巨大な記念碑。大航海時代の幕開けを担った先頭のエンリケ航海王子をはじめ、歴史家など33体あり、ヴァスコ・ダ・ガマ(3人目)、マゼラン(6人目)の姿が見える(1960)。

大航海時代とは?

大航海時代とは、ヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカ・アメリカ大陸への進出が盛んだった15世紀半ば〜17世紀半ばにかけての時代をいいます。

この時期のヨーロッパでは、肉食文化が広がるにともなって、スパイスの需要が拡大していました。そのため、主な原産地であるアジアから、直接輸入するためのルート開拓が急務となったのです。

造船技術の向上や、キリスト教を海外に布教しようとする思惑なども相まって、まずはポルトガルとスペインが大海原へと船を出していきました。

この大航海時代によって、世界は実質的に一つにつながることになったのです。

史上初の世界一周をした人は、誰?

史上初の世界一周航海の立役者であるマゼランですが、彼自身は世界一周した航海の成功を見ることなく、この世を去っています。マゼランが携わった航海について、その詳しい経緯を紹介します。

マゼラン(イメージ)

計画を立てたのはマゼラン

当時のヨーロッパでは、クローブをはじめとするスパイスの需要が急激に高まっていました。しかし、ヨーロッパの気候ではスパイスを栽培することが困難だったため、主な原産地であるモルッカ諸島まで、はるばる買い付けに行く必要があったのです。

とはいえ、当時のヨーロッパからモルッカ諸島へと向かう航路は、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが発見した東回りルートのみであり、すでにポルトガルによって掌握されていました。

そんな状況に対し、「西回りでモルッカ諸島へ到達すれば、独自の貿易ルートを確保できる」と考えたのがマゼランです。マゼランの計画を、スペイン国王カルロス一世が後押しし、「マゼラン艦隊」として出港する運びとなったのです。

さまざまな苦難が航海を襲う

マゼラン艦隊の人数については諸説ありますが、260~280人ほどいたとされています。彼らを乗せた5隻の船団を率いたマゼランは、モルッカ諸島を目指して、1519年にスペインを出港しました。

しかし、その旅は苦難の連続となります。まず、現在のアルゼンチン南部まで南下したころ、もともとポルトガル人であったマゼランに反発したスペイン人乗組員が反乱を起こしました。この反乱に厳しく対処したマゼランは、2隻の船と多くの乗組員を失うことになったのです。

どうにか事態を収め、食糧不足と壊血病(かいけつびょう)に悩まされながらも一行は航海を続けます。そうして、1521年4月に、現在のフィリピン諸島へ到着したマゼランは、現地住民にキリスト教への改宗を迫りました。

当初はうまくいったものの、改宗に抵抗した部族との争いに敗れ、マゼランは道半ばにして命を落としてしまうのです。

マゼラン・クロス(フィリピン・セブ島)。キリスト教の布教活動のためセブ島を訪れたマゼランが、フィリピンで最初に洗礼を受けたフマボン王と王女ファナ、およびその臣下400人のために建てた木製の十字架。1984年に八角堂が造られ、十字架を保護している。

スペインへ帰れたのは、わずか18人

マゼラン亡きあとも、当初の予定通り航海を続けた一行は、1521年11月にモルッカ諸島へ到着しました。その地で得たスパイスの量は、一説によると1トンにも及んだとされています。

無事に目的を果たした一行は、1522年にスペインへたどり着きます。このときに残っていた船は、フアン・セバスティアン・エルカーノが率いるわずか1隻で、生き残った乗組員は18人ほどといわれています。

この航海の成功によって、間接的に地球が丸いことが証明されました。やがてポルトガル、スペイン両国に続き、オランダやイギリスなども勢力拡大に乗り出し、のちの植民地主義へとつながっていったのです。

世界航路を開拓してきた人たち

世界航路の開拓者として、マゼランと並んで広く名を知られているのが、「コロンブス」と「ヴァスコ・ダ・ガマ」です。彼らの成した偉業の詳細を紹介します。

アメリカ大陸を発見した「コロンブス」

コロンブスは、アメリカ大陸の発見者として知られる人物です。

コロンブス(イメージ)

ポルトガルで航海士として活躍していたコロンブスは、航海士としての経験や読書で得た知識を通じ「西回りでインドやモルッカ諸島、日本へたどり着けるはず」との確信を得ました。

1492年8月3日、スペイン女王イサベル一世の協力のもと出港したコロンブスは、10月12日にバハマ諸島のサンサルバドル島へたどり着きます。

このときに発見したアメリカ大陸を、コロンブスがインドと誤解したことから、アメリカ先住民は「インディオ」と呼ばれることになりました。

インド航路を発見した「ヴァスコ・ダ・ガマ」

ヨーロッパとインドをつなぐ東回りの航路を発見したのが、ポルトガルの航海者「ヴァスコ・ダ・ガマ」です。

ヴァスコ・ダ・ガマ(イメージ)

スペインのコロンブスによるアメリカ大陸発見を受けたポルトガルは、インドの香辛料を手に入れるための新航路開拓を急ぎます。

1497年7月、ポルトガル王マヌエル一世の命を受けたヴァスコ・ダ・ガマは、インドを目指して出港します。喜望峰(きぼうほう)までの航路が発見されていたこともあって、11カ月後に無事インドへと到着するのでした。

この成功により、ポルトガルは大きな富を得ます。マゼランが西回りの航路開拓を目指すきっかけになるなど、ヨーロッパ諸国が広く世界へ進出するうえで、大きな役割を果たすことになるのです。

人を知ることで歴史も理解しよう

マゼランは大航海時代の航海者・探検家であり、史上初の世界一周航海の立役者となった人物です。

サント・ニーニョ教会(フィリピン・セブ島)。1565年に建てられたフィリピン最古のカトリック寺院。マゼランが王女ファナに贈った教会の守護聖人サント・ニーニョ像(幼いイエス・キリスト像)が祀られている。現在も、フィリピン人の大半がカトリック教徒だ。

彼自身は、道半ばで命を落としたものの、残された一行は、さまざまな苦難を乗り越えて見事ミッションを完遂し、西回りでモルッカ諸島へ向かうルート開拓を成功させました。

マゼランをはじめとする歴史に名を残した人物への理解を深めることで、歴史への理解も自然と深められるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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