レーニンって、どんな人?
「レーニン」は、思想家として数多くの書物を著し、「ロシア革命」に大きな影響を与えた一方で、武力行使も辞さない過激な面もありました。レーニンは、どのような生涯を過ごしたのでしょうか。
1870年、シンビルスクに生まれる
レーニンは1870年、モスクワから約900km離れたシンビルスク(現ウリヤノフスク)で、教育者の家庭に生まれました。本名は、ウラジーミル=ウリヤーノフといいます。「レーニン」という名前は、ペンネームで「レナ川の人」という意味です。
6人兄妹の3番目で、成績優秀な子どもだったとされています。自由保守主義者の父の影響を強く受けたこともあり、「すべての人々に自由と平等を」という考え方は生涯を通して変わりませんでした。
レーニンが17歳のとき、兄がロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画に参加したことで絞首刑になります(1887)。レーニン自身もカザン大学を追放され、コクシキノ村のウリヤーノフ家の所有地に流刑(るけい)になります。しかし翌年には、母の尽力でカザン市に戻り、このころからマルクス主義に傾倒していきました。
革命と亡命の日々を過ごす
レーニンは、サンクトペテルブルク移住後も社会主義活動を続け、1897年にはシベリア流刑になり、刑期が終了した1900年には西ヨーロッパへと亡命します。1905年の「第一次ロシア革命」では指導者として活動しますが、失敗して1907年には再度亡命を余儀なくされます。
亡命中には、社会主義革命に関する数多くの著作を出し、新聞や雑誌を創刊しました。それらはロシア国内に送られ、少しずつロシア革命への気運を高めていくことになります。
1917年、スイスで「二月革命」の知らせを聞いて、ロシアに入国しますが、臨時政府の弾圧を受けてフィンランドへ逃亡します(8月)。その後、機関車に隠れてロシアに再入国し(10月)、武装蜂起(ほうき)して臨時政府を倒しました。これを「十月革命」といい、レーニンが率いるボリシェビキ(多数派の意)独裁が始まります。
プライベートでは、シベリア流刑中、同じく流刑になっていたマルクス主義者のナデジダ・クルプスカヤと結婚しています(1898)。
ソビエト連邦を樹立
十月革命成功後、レーニンは、第2回全ロシア=ソビエト会議で主導権をにぎり、実質上の国家権力を掌握します(10月)。第一次世界大戦中の1918年3月には、ドイツとの間に「ブレスト=リトフスク条約」を結び、大戦から離脱しました。
とはいえ、革命に反対する諸外国からの干渉戦争や、国内の反革命勢力を抑えるための戦いは続きました。戦いが続くことによって、農民や労働者の生活はますます苦しくなります。
自分たちの声を届けるため、農民や労働者は、各地に「ソビエト(会議・評議会の意)」を樹立していきます。1922年、ロシア各地のソビエトは、一度は分離を認めたベラルーシ・ウクライナ・ザカフカースを含めて「ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)」となりました。
こうして国家体制を整えていったレーニンですが、激務のなかで次第に健康を害していきます。とうとう、1923年3月に3度目の脳卒中(のうそっちゅう)の発作をおこし、翌1924年1月、54年の生涯を閉じました。
レーニン主義とは
レーニン主義とは、ロシア革命を指導したレーニンが唱えた理論です。マルクス主義をもとにして、プロレタリア独裁への道を説きました。
マルクス主義を発展させた思想
19世紀のドイツの哲学者マルクスは「資本主義が発展しきった先進国においてこそ、労働者による革命が起こる」と考えていました。
レーニンは、この考えをロシアにあてはめ、「資本主義後進国であるロシアでも、労働者による革命は可能である」と考えます。マルクスの思想に、プロレタリア独裁や一国社会主義の考え方を盛り込んだものといえるでしょう。
このように、ロシアの事情にあわせてマルクス主義を発展させたレーニンの思想を、「マルクス・レーニン主義」ともいいます。レーニンの死後、スターリンによってレーニン崇拝が推進されると、レーニン主義はソ連の基本思想となり、長く尊重されました。
レーニンの没後のソビエト連邦
レーニンの死後も、ソ連にはレーニンの影響が強く残り、社会主義政策をすすめていくことになります。レーニンの後、誰がソ連の主導権をにぎったのかも含めて見てみましょう。
遺体は「赤の広場」に
モスクワの中央部にある「赤の広場」には、現在でもレーニンの遺体が安置されています。防腐処理を施され、スーツに身を包んだ遺体は、1924年に亡くなったときのままの姿をしているようです。
見学は無料ですが、レーニン廟(びょう)への出入りは厳重に管理されています。入室の際は金属探知機を通らなくてはならず、ポケットから手を出すように要求されます。さらに、霊廟内での会話や携帯電話の使用、カメラの持ち込みは禁止です。
内部で後継者争いが起こる
晩年のレーニンは、右半身がしびれて政務を執るのが難しくなったため、スターリンを書記長に任命して自分の補佐をさせました。スターリンは、他の者をレーニンに会わせないようにして、自らの影響力を強化していきます。
レーニンの死後、共産党内部では、十月革命の英雄・トロツキーが後継者と考えられていました。しかし、スターリンは、自身が後継者となることを狙っていたため、二人の間の争いが激化します。
一国社会主義を掲げるスターリンと、世界同時革命論を展開するトロツキーの対立は、スターリンに軍配が上がりました。1929年、トロツキーは国外に追放され、1940年に亡命先のメキシコで暗殺されました。その黒幕は、スターリンだといわれています。
後継者となったのは「スターリン」
権力を掌握したスターリンは、ソ連共産党中央委員会書記長に権限を集中させ、一党独裁を敢行します。1930年代後半からは、大規模な政治的弾圧・大粛清(しゅくせい)を行い、ヒトラーと並んで20世紀最大の独裁者として恐れられました。
第二次世界大戦では、敗戦国をしのぐほどの犠牲を出したにもかかわらず、戦後の東西冷戦状態を構築し、東側の独裁者として君臨し続けます。そのなかで、工業化の推進や軍事力の強化を行い、ソ連を大国へと押し上げました。
1917年の十月革命から約70年もの間、ソ連という社会主義国家が存続できたのは、スターリンの強大な支配力によるところが大きいといえます。
歴史上の人物の考えを追ってみよう
世界初の社会主義国家であるソ連を建国したレーニンは、子どものころに知った自由主義の思想に突き動かされていました。「すべての人の自由と平等」を実現するために、労働者による国家をつくる必要があったのです。レーニンの思想は「レーニン主義」として、本人の死後も長く社会主義の基本となりました。
歴史上の人物の考えをたどってみると、歴史的事件の背景まで浮かび上がってくるため、よりいっそう歴史への理解が深まるのではないでしょうか。
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構成・文/HugKum編集部