フリースクールになった自然の学び、その中身は?
――しょ島部を覗けば唯一東京の「村」である自然にあふれた檜原村・数馬。ここでイモニイが展開する学びは、「自分自身であることをよりどころにして問を立てて解決していく、究極の学び」だと評判です。週4日自然の中で継続的に学べる『森の教室檜原村』ではますます、自然の中で自由に学ぶその学びのよい面が増したのではないでしょうか。
*『森のスコーレ』は選択式フリースクールで、『森の教室檜原村』は週1,3,4日を選べます。このほか、お茶の水や用賀、多摩で開催される教室をすべて組み合わせてカスタマイズできるのが特徴です。詳しくは前回の記事をごらんください。
井本:むしろ、目を背けてすまそうとすることを子どもたちの目の前に置く。でも授業では僕らが、それを子どもたちが取り組みたくなるような形にデザインして置く。だからこそ子どもたちは、自分だけなら避けるようなことに自ら進んで向き合おうとする。それが授業の醍醐味です。
もともと、森の教室も僕の授業も完全に自由ではないのです。向き合いたくないことに向き合うのに、ゆるやかに枠を決められるのは、彼らにとって安心なんですよ。なんでも放任して「自由でいいよ」っていうのでは、むしろ子どもは不安になるんです。
少し不自由ななかで何を選択するかは自由
井本:自然はそれ自体が子どもたちにとって不自由なもの。でもそんな中でも、決して子どもたちがやることをジャッジしない。もうすでに「不自由な環境で自由にする」というデザインになっているんです。だから、僕らは必要なときだけ出ていく「黒子」に徹していれば、勝手に子どもたちはゆったりと自分らしく「学ぼうとせずして学ぶ」ことができるのです。このコンセプトはブレずにそのまま続行です。
このような不自由な環境では、火をつけるにしても、木を切るにしても、今ある手持ちでなんとかするしかありません。ひとつひとつ自分で丁寧にプロセスを踏んでいくことになる。すると子どもたちは驚くほど穏やかになります。なぜならそれこそが「生きる」ということだからです。そう思うと、あらゆるプロセスを引っこ抜かれて結果だけを求められる今の世の中に晒された子どもたちが、ゲームやYOUTUBEなどの強い刺激を求めてしまうのは当然のことと言えるかもしれません。
「スコーレ」は学校の語源。遊び、学び、ヒマ、全部がスコーレ
――ところで、『森のスコーレ』のスコーレって、どういう意味なのでしょうか。
井本:スコーレってスクールの語源なんですよ。もともとはヒマ、余暇という意味。そこがいもいもの考えにとてもぴったりきました。
森のスコーレでは、こんなことが日々、起こります。例えば誰かが倒れた大木でベンチを作ろうと考える。折れて横たわっている木をのこぎりで切るのは大変です。大人はチラチラ見てはいますが、手伝わない。きれいに切れるように、おのずとほかの子も協力します。そうやっていつの間にかベンチができていくのです。残った木を使ってコップ置きを作る子もいる。ベンチを2台作って向かい合わせにして、その真ん中で火を焚こうとか。だんだん子どもたちがデザインするようになります。
また、焚き火でお餅を焼くというときに、道具が一切ないので炭の上に置いて焼くと灰がついてしまう。灰は食べられるので、平気な子はそのまま食べるけれど、女の子のひとりが「灰がつくのがいやだ。アルミホイル貸して」と言っても、僕らは「貸せないよ」と不親切になります(笑)
ブツブツ言いながら試行錯誤し、結局その子は、石の上に置いたら灰がかからないし、遠赤外線効果で驚くほどおいしく焼けると発見する。
偶発的なことをつなげて学んでいく子どもたちの発想力は、素晴らしいです。
試行錯誤と思索を繰り返し、自分なりのゴールに近づいていく。数馬の森の中は、その材料がふんだんにある環境なのです。
学ぼうとなんてしなくても、学んでいくのですね。だから僕らは数馬で森の教室をやる意味があると思っているのです。
――いもいもでは、どの子が不登校か、ひきこもりの子か、超優秀な子かなんて関係ありません。とにかく川原で思う存分一緒に遊んで、笑って、最後は一瞬でみんなが川に飛び込んだり。数馬は、子どもたちに力を与えます。子どもたちは自由と不自由を行き来しながら、ごく自然に学んでいくのです。
さて、大人もうらやむこのような学びの一端を、いもニィはすでに大人対象にも行っていました。次回はいもいもが鎌倉市で行った「大人との対話」研修について伺います。