「寺子屋」「寺小屋」どちらが正しい? 起源や普及した理由、教育内容まで分かりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

昔の日本には、庶民の子どもが通う「寺子屋」と呼ばれる場所がありました。寺子屋がいつ頃生まれて普及したのか、なぜ寺子屋と呼ぶのか、気になる人もいるでしょう。寺子屋の起源や教育内容について、現代との比較を交えながら分かりやすく解説します。

寺子屋とは?

「寺子屋(てらこや)」とは、当時の人にとって、どのような場所だったのでしょうか。名前の由来もあわせて見ていきましょう。

江戸時代に普及した庶民の学校

寺子屋とは、江戸時代に存在した、庶民の子どもが通った学校のことです。庶民の子どもたちは、もともとは各家庭や奉公先で、社会生活に必要な知識を学んでいました。

しかし、江戸時代の中期頃からは家業で忙しい親に代わり、子どもを教育してくれる場所のニーズが高まりはじめます。

以降、幕末まで庶民の教育熱は衰えることなく、大都市はもちろん、地方の農村や漁村でも寺子屋が開かれるようになりました。

明確な統計はありませんが、幕末には全国に1万5,000以上もの寺子屋があったといわれています。

寺子屋のイメージ。寺子屋は、まったくの私的教育施設で、男女・年齢などにとらわれず幅広い年代層の子どもたちがいた。いわば無学年制のフリースクールのようなもの。

室町時代後期から明治時代初期まで続いた

寺子屋の名前は、「寺小屋」と表記を間違えるケースも多いので注意しましょう。

昔の寺は、公家(くげ)や武家など身分の高い家の子どもが勉強する場所でもありました。室町時代後期になると、庶民の子どもたちも寺で学びはじめます。寺で学ぶその子どもたちを「寺子」と呼んだことが「寺子屋」の由来です。

なお、当時、寺子屋と呼んでいたのは関西地方だけで、地域によって異なる呼び方をしていました。例えば、江戸では「手習(てならい)」「幼童筆学所(ようどうひつがくしょ)」「手跡指南(しゅせきしなん)」などと呼んでいたようです。

寺子屋は、明治維新後もしばらく続き、教室が小学校の代わりに使われたり、先生がそのまま教師になったりして、子どもたちの教育に貢献しています。

藩校・私塾との違い

江戸時代の教育機関といえば、藩校私塾がよく知られています。藩校は、武家の子どもを教育するために置かれた、藩直営の学校です。国学や漢学を中心に、幕末には洋学や医学・武術まで幅広く教えました。

私塾は、学者が私的に開いた教育機関を指します。幕府や藩の方針にとらわれない、独自の学問や思想を教えていました。吉田松陰(よしだしょういん)が、長州(現在の山口県)に開いた「松下村塾(しょうかそんじゅく)」や、緒方洪庵(おがたこうあん)が、大坂に開いた「適塾(てきじゅく)」などが有名です。

松下村塾「講義室」(山口県萩市)。1842(天保13)年、松陰の叔父・玉木文之進が私塾を開き、「松下村塾」と名付けた。1857(安政4)年に松陰が塾を引き継いだ。塾生は約50人。著名な門下生には、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿らがいる。

寺子屋の構造

江戸時代の寺子屋は、どのように運営されていたのでしょうか。現在の小学校と比べながら、違いを見ていきましょう。

生徒の年齢や性別は?

江戸時代には、今のような義務教育制度はありません。寺子屋通いはあくまでも任意で、入学や卒業の条件も決まっていませんでした。

もちろん年齢や性別の制限もなく、やる気さえあれば誰でも通えたため、大人でも入る人がいたといわれています。

とはいえ、生徒のほとんどは、家の跡継ぎとなる男の子でした。5〜8歳で通いはじめ、数年学んで卒業するのが寺子屋の一般的なコースとされています。

先生には、どんな人がいた?

寺子屋では、地域のなかでも知識人と呼ばれる職業の人たちが先生となります。役人・僧侶・神主・医師などが多く、都市部では女性の先生もいました。

彼らは、幕府や藩に命じられたわけでもなく、自主的に寺子屋を開き、ほとんどボランティアのような状態で子どもたちの教育にあたります。

自分が身に付けた教養を、社会のために役立てていた寺子屋の先生は、子どもの親や地域の人たちからも敬われる存在でした。そのため、子どもたちは寺子屋の先生を「お師匠様」と呼び、生涯尊敬したそうです。

費用は、どのくらいかかった?

子どもを寺子屋に通わせるために、保護者は以下のような費用を支払っていました。

●束脩(そくしゅう):入学金
●謝儀(しゃぎ):毎月の授業料
●畳料や炭料:年に一度支払う設備費

ただし、いずれも金額は明確に決められていたわけではありません。寺子屋の費用は、それぞれの家庭の事情を考慮し、払える額を払えばよいとされていました。

現金以外のもので納めることも認められており、謝儀として野菜や魚介類を持って通う子どもも多かったと伝わっています。

寺子屋教育の特徴

寺子屋は、単に読み書きを教えるだけではなく、人間教育の場でもありました。寺子屋が実践していた教育の特徴を見ていきましょう。

個別カリキュラムが組まれていた

江戸時代は今と違って、子どもが家業を継ぐのが当たり前の世の中です。商人の子は商人に、農民の子は農民になると決まっていました。

このため、寺子屋では広く学問を修めるというより、家業を継ぐために必要な知識をスピーディーに身に付けさせることを重視してカリキュラムが組まれています。

すべての生徒に同じ内容を教える現在の義務教育と異なり、基礎的な読み書きを教えた後は、ひたすらその子が将来就く職業に合わせた個別指導が行われました。

寺子屋の教科書は「往来物(おうらいもの)」と呼ばれ、「百姓往来」や「商人往来」、職人向けの「番匠(ばんしょう)往来」など、内容別のタイトルが付けられています。寺子屋の普及とともに往来物の種類も増えていき、幕末頃には約7,000種類もあったといわれています。

寺子屋の師匠は膨大な往来物の中から子ども一人ひとりに適したものを選び、個別カリキュラムを用意して実用的な知識を教授していたのです。

五つ玉の算盤(そろばん)と寛永通宝。寺子屋で指南される学問は、方角・十二支などから始まって、「読み書き算盤」といわれる基礎的な読み、習字、算数と進み、地理、人名、書簡の作成など、実用的な要素の強いものが教えられた。

しつけの場所でもあった

知識や技術を教えることに注力する現在の義務教育と比べて、寺子屋は道徳教育にも重点を置く、しつけの場所でもありました。どんなに読み書きや計算が達者でも、基本的なしつけができていなければ社会に受け入れてもらえません。

目上の人を敬う心がけから、子ども同士の良好な関係の築き方まで、寺子屋の師匠は、あらゆる方面に目を配っていたのです。

なかには「子どものけんかに口出ししない」「規則正しい生活をさせる」など、我が子に甘い保護者にアドバイスする師匠もいました。

女子教育を行う寺子屋も

寺子屋に通う子どもは、ほとんどが男子でしたが、時代が下るにつれて女子の姿も増えはじめます。ただし、当時は男子と女子とで学ぶべき事柄がまったく違いました。それを受けて、裁縫・茶道・華道・礼儀作法などの女子教育を専門とする寺子屋が現れます。

通う子どもの属性に合わせて臨機応変に姿を変える様子も、実用教育を施すことが目的の寺子屋らしい特徴といえるでしょう。

寺子屋が普及した背景と成果

貧富や身分に関係なく学べる寺子屋は、当時としては世界的にも珍しい存在でした。江戸時代に寺子屋が普及した理由と、後世に与えた影響を紹介します。

庶民にも、読み書き能力が必要になった

江戸時代は、約200年以上も大きな戦いが起こらなかった、平和な時代としても知られています。戦(いくさ)におびえる日々は過ぎ去り、皆、安心して家業を続けられるようになりました。

このため文化・経済が発達し、親が子どもの教育に心を砕くゆとりも出てきます。そのほか、法令の告知や各種の取引が文書によって行われたことも、庶民の教育熱をかきたてます。

商人はもちろん、年貢を納める農民やものを作る職人も、読み書きや計算ができないと、知識のある側から搾取される恐れがあったのです。

しかし、多くの人は自分の仕事に手一杯で、子どもの教育に割く時間がありません。そこで教育を外部に任せる動きが広がり、寺子屋の普及を後押しすることになりました。

世界有数の識字率を誇る国に

現在、先進国では教育体制が充実しており、読み書きができるのは当たり前となっています。しかし、日本の子どもたちが寺子屋に通っていた頃は、そうでもありませんでした。

幕末の江戸における成人男性の識字率は約70%でしたが、同じ頃のロンドンでは約20%、パリでは10%未満だったとされています。

識字率の定義は、国や時代によって異なるため一概に比較できませんが、低く見積もっても西欧列強に引けを取らないレベルだったといえるでしょう。

開国を迫るためにアメリカからやってきたペリーも、庶民の子どもたちが読み書きをマスターしていることに、とても驚いたそうです。維新後に日本人が急速な西洋化に対応できたのも、身分や貧富にかかわらず、誰でも学べた寺子屋教育の成果ではないかと考えられています。

実用的な教育が受けられた寺子屋

寺子屋は、時代のニーズに合わせて独自に発達した教育機関です。子どもに教育を受けさせたい親と、損得抜きで受け入れる知識人の熱意によって、実用的な学びの場として機能していました。

昔の子どもたちがどのような思いで寺子屋に通い、何を学んだのか、親子で想像してみるとよい勉強になるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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