チンギス・ハンとは何をした人? 武勇伝や、義経と同一人物説について紹介【親子で歴史を学ぶ】

歴史の授業で習った記憶はあっても、チンギス・ハンがどのような人物なのか覚えていない人もいるのではないでしょうか。そこでチンギス・ハンの生い立ちや、成し遂げたことを紹介します。源義経との同一人物説についてもチェックしていきましょう。
<画像:チンギス・ハンとモンゴルの草原>

チンギス・ハンの生い立ち

「チンギス・ハン」は、モンゴルの歴史を知るうえで欠かせない重要人物です。どのような幼少期を過ごしたのか、生い立ちを紹介します。

苦難の多かった幼少時代

チンギス・ハンの本名は「テムジン」といい、1162年に誕生しました。当時のモンゴルは複数の部族に分かれており、父親は有力な部族の長(おさ)を務めていました。

9歳のときに、父親が敵対する部族に暗殺されてしまいます。部族は離散し、チンギス・ハンは、残された母親と兄弟とともに困窮した生活を余儀なくされました。

その後も、いずれ脅威になることを恐れた部族に捕らえられたり、妻が略奪されたりと、苦難が続きます。しかし、持ち前の行動力と統率力で次第に勢力を拡大し、モンゴル帝国樹立に動きはじめるのです。

モンゴルの大草原。モンゴルでは、馬が国民生活に欠かせない役割を果たしている。ヒツジやヤギは1千万頭以上飼育され、畜産は馬を使った遊牧で行われる。右に見える移動式住居は「ゲル」といい、木とフェルトでできており解体に1時間、組み立てに2時間あればOK。

チンギス・ハンが、したことは?

チンギス・ハンは、具体的にどのようなことを成し遂げたのでしょうか? 主な出来事とともに、モンゴル帝国軍の戦略についても紹介します。

モンゴル系部族の統一

チンギス・ハンは、モンゴル系部族間の争いに勝利し、部族を統一しました。幼少期からの親友で、別の部族長だったジャムカとの闘争が有名です。「十三翼の戦い」(1190年頃)では、兵力で圧倒的に勝っていたジャムカ軍が勝利したといわれています。

同じ頃、国を追われたトオリル・ハンを救済し同盟を結び、父親を暗殺したタタル族を討滅します(「ウルジャ河の戦い」)。その後も、ケレイト族やメルキト族などを次々と討滅していったのです。1204年にはジャムカが同盟を結んでいたナイマン族との戦いにも勝利し、モンゴル系部族を統一しました。

1206年に「モンゴル帝国」を樹立

モンゴル系部族を統一したチンギス・ハンは、1206年に各部族長を集結させ、「クリルタイ」を開きました。

クリルタイとは、部族長が集まる大集会のことで、君主の選出や国の重要事項の決定などを裁決する場です。現在の国会のような役割があったと考えられています。

クリルタイで、君主の称号である「ハン」に選ばれたチンギス・ハンは、モンゴル帝国を樹立し、初代モンゴル皇帝となったのです。

チンギス・ハン坐像(モンゴル・ウランバートル)。首都ウランバートルの国民大会議(国会)議事堂前にある。

世界へと手を伸ばす

モンゴル帝国樹立後は、周辺諸国を征服し領土の拡大を目指します。陸上と海上の流通を意のままに支配し、交易するのが目的の一つでした。

中国北部の「金王朝」や中央アジアの「ホラズム・シャー朝」を支配下に収め、西へと領土を拡大していきます。1223年には、ルーシ(ロシア)が支配していた軍も撃破しました。

7年ぶりに遠征から戻ると、幾度となく服従を誓っては裏切られてきた「西夏(せいか)」の討伐に乗り出します。しかし、すでに高齢だったチンギス・ハンは、西夏が降伏する数日前に死去してしまったのです(1227)。

チンギス・ハンの戦略

モンゴル帝国軍の強さは、遊牧民族特有の機動力にあったと考えられています。歩兵や重装の騎兵が主だった敵に対し、モンゴル帝国軍は軽装の騎兵が主でした。遊牧民族は、馬などの家畜とともに暮らしており、素早く騎兵し移動できたのです。

千戸制(せんこせい)」という中央集権的な軍の仕組みを作ったことも、強さの理由です。まず10兵ずつの隊に分け、その隊を10隊束ねて100兵にするというように階層状にしたことで、たとえそれぞれの隊の長が倒れたとしても、統率を失わずに戦えることが強みでした。

さらに情報操作にも長けていたといわれています。投降を促すために、わざと残忍な軍隊であるかのような情報を流し、恐怖心をあおり、投降させるという戦略を用いたことで、効率よく領土拡大ができたのです。

エルデネ・ゾー(モンゴル・ハラホリン)。モンゴル中部に位置するハラホリンは、モンゴル帝国の首都で旧名はカラコルム。見渡す限りの草原に並び立つ、かつての繁栄を物語るエルデネ・ゾーは、四方を108の仏塔で囲まれたモンゴル最古のチベット仏教寺院群である。

「チンギス・ハン=源義経」説は本当?

チンギス・ハンは、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝(みなもとのよりとも)の弟・義経(よしつね)であるという説を聞いたことがある人もいるかもしれません。実際に、同一人物なのでしょうか?  その真偽を確認していきましょう。

「義経と同一人物」説が生まれた理由

チンギス・ハンと義経の「同一人物説」が生まれた理由は、多くの共通点があることです。チンギス・ハンのDNA解析によって、義経とは別人であるとされていますが、同一人物説は根強い人気があります。

まず、出生年など二人が生きた年代が近いことです。義経が自決した年と、チンギス・ハンが勢力を強めていったタイミングから、義経が実は生き延びてモンゴルに渡り、活躍したのではないかといわれています。

奇襲作戦を巧みに用いるなど、軍事戦略が似ているという共通点もあります。義経が使用していた「笹竜胆(ささりんどう)」と呼ばれる家紋と、チンギス・ハンが使用していた紋章が似ていることも共通点です。

弓馬に優れたイメージから「源義経=チンギス・ハン説」が誕生?

博物学者のシーボルトから広まった

最初に同一人物説を説いたのは、オランダの博物学者・シーボルトです。来日していたシーボルトが、帰国後に執筆した著書「日本」の中に、そのような記述があります。

実際には、江戸時代の朱子学者・新井白石(あらいはくせき)など知識人の中にも、同一人物説を論じた人物がいました。明治時代に活躍した東洋学者のウィリアム・グリフィスや政治家・末松謙澄(すえまつけんちょう)も、同様の説を自著の中で述べています。

大正時代に、小谷部全一郎(おやべぜんいちろう)の「成吉思汗は源義経也」がベストセラーになったことで、同一人物説が広く知られるようになったのです。

偉人が成し遂げたことを改めて確認

チンギス・ハンは、苦難続きの幼少期を過ごしながらも、持ち前の行動力と統率力でモンゴル系部族を統一し、モンゴル帝国を樹立した人物です。機動力や統制の取れた軍事力で周辺の国を次々と征服し、大帝国を築き上げました。

また、チンギス・ハンには、源義経と同一人物説があります。実際には別人物であることが分かっていますが、なぜそのような説が生まれたのか、二人の共通点から、その時代の出来事やモンゴル帝国がその後どのように発展し、そして衰退していったのかまで調べてみるのもよいでしょう。

ちなみに義経はこんな人!

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構成・文/HugKum編集部

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