長篠の戦いとは
織田信長(おだのぶなが)による鉄砲戦術が大成功したことによって、「長篠の戦い(ながしののたたかい)」は、日本史上でも特に有名な合戦となりました。戦いの概略から、戦いが起こった背景・結果まで詳しく説明していきます。
織田・徳川連合軍と武田軍が激突した戦い
長篠の戦いは、武田信玄(たけだしんげん)の死後に勃発(ぼっぱつ)した戦いです。信玄の跡を継いだ武田勝頼(かつより)が1575(天正3)年、徳川家康(とくがわいえやす)の領地である三河(みかわ)の長篠城を攻めたのが始まりです。
「長篠の戦い」といわれていますが、主戦場は、長篠城と設楽原(したらがはら)の2カ所でした。その規模は、織田・徳川軍約3万8,000人、武田軍は長篠城に残した約3,000人と合わせて約1万5,000人といわれています。
結果は、織田・徳川連合軍の圧勝でした。この戦いでの武田軍の惨敗は、後の武田氏滅亡へのきっかけとなりました。
戦いが起こった背景・経緯
長篠の戦いの背景には、その数年前に起こった「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」があります。1572(元亀3)年に起こったこの合戦は、信長・家康と信玄の戦いでした。
上洛を狙う信玄が、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)による信長討伐の意を受け、織田と同盟を結ぶ徳川の領地を攻めたのです。結果は信玄側の圧勝でしたが、そのすぐ後に信玄は病(やまい)にて没し、武田軍は三河から撤退します。
当時、信長は西を三好・毛利、北を浅井(あざい)・朝倉、東を武田というように敵に囲まれ、ひとつ手を間違えば、滅亡しかねない緊迫状態でした。しかし、強敵である信玄が急死したことで、信長は巻き返しのチャンスを手にします。
一方、信玄を亡くした武田家は、四男・勝頼が跡を継ぐも、家中の信頼を得られません。それでも勝頼は、美濃(みの)の明智(あけち)城、遠江(とおとうみ)の高天神(たかてんじん)城を落とし、そして長篠の戦いの戦地・長篠城へと侵攻したのです。
ちなみに、そのときすでに信長は義昭を京都から追放、浅井・朝倉を滅ぼし、家康も旧領地を回復して勢力を立て直していました。信長・家康にとっては、一度惨敗した武田との争いに決着をつけるときが来たのです。
長篠城・設楽原での決戦
勝頼率いる武田軍は、奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が守る長篠城を攻めますが、なかなか落ちません。そうするうちに、織田・徳川の本隊が長篠城の約5km西に位置する設楽原に到着します。
勝頼は長篠城攻めを中断し、わずかな兵を残して設楽原へ向かいました。そのとき、信玄以来の多くの重臣は、先に長篠城を落とすべきだと勝頼に反対したといいます。
その間、設楽原では織田・徳川軍が馬防柵(ばぼうさく)を巡らせ、武田軍を待ちかまえていました。そして武田本軍が設楽原へ到着し、陣を構えるや否や、長篠城に残る武田軍を夜襲で駆逐(くちく)したのです。退路を絶たれた武田本軍は果敢に攻め込みますが、馬防柵を駆使した鉄砲隊の前に惨敗してしまいました。
なお、この夜襲を提案したのは、徳川四天王の一人・酒井忠次(さかいただつぐ)でした。敵の間諜(かんちょう)に情報が漏れることを恐れた信長は、一度忠次の提案を却下しますが、すぐに忠次を呼び寄せて、再度夜襲を命じたといいます。
両軍の命運を分けた決め手とは
天下一といわれた武田軍が、惨敗した要因はいくつかあります。周到に巡らされた織田方の作戦が功を奏したことはもちろん、運を味方に付けたことも大きいと考えられます。それぞれの要因を見ていきましょう。
鉄砲と馬防柵
大きな要因は、織田・徳川軍が鉄砲の威力を十分に発揮する方法を考案したことでしょう。
当時の鉄砲である火縄銃(ひなわじゅう)は、縄に火を点(つ)けて発砲する仕組みでした。1回撃つと、次に撃つために鉄砲の筒を掃除し、弾を込めて点火するなど時間を要しました。準備中に敵に襲われてしまうので、実戦には不向きと考えられていたのです。
そこで織田・徳川軍は、騎馬隊を妨害する馬防柵を設け、鉄砲の準備時間を作りました。さらに大量の鉄砲を揃えたことで、間断ない射撃が可能になり、鉄砲の威力がさく裂したのです。有名な「三段撃ち」は、史実ではないという説が有力ですが、柵があれば、時間差で射撃することは可能だったといえるでしょう。
運を味方に付けた梅雨将軍
信長は、雨を味方に付けるという運のよさも持っています。「桶狭間(おけはざま)の戦い」でも雨の合間をぬっての奇襲が大成功し、梅雨将軍とあだ名を付けられたほどでした。
設楽原の戦いでは、武田陣営では霧がかっているのに、織田・徳川陣営は雨が上がっていたといいます。火縄銃は濡れると使えず不利な戦いになるにもかかわらず、大きな賭けに出た豪胆さと、その強運が織田軍の士気を高め、大将への信頼につながったのでしょう。
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武田家中の分裂
武田軍敗戦の重要な要因の一つは、武田方にありました。勝頼は父・信玄の跡を継いで武田家の総帥(そうすい)となりましたが、重臣たちは信玄に比べて見劣りのする勝頼に信頼をおいていませんでした。
長篠城を落とさずに放置したまま設楽原へ進軍することも、「もはや負け戦(いくさ)だ」と嘆いたといいます。家中を統率できていなかったことが、勝頼の最期にも大きな影響を及ぼします。
長篠城防衛の英雄・鳥居強右衛門
落城寸前の長篠城を救った英雄に、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)という武士がいます。鳥居は、援軍を求めて家康のいる岡崎へ使者に立ちますが、武田軍の囲みを抜けるだけでも命がけです。背後の山にたどりついて、無事に脱出したことを知らせる狼煙(のろし)を上げたとき、長篠城は歓喜にどよめきました。
岡崎で、援軍3万8,000人の救援を取りつけた鳥居は、急ぎ長篠城に戻りますが、武田軍に捕まってしまいます。「味方に、援軍は来ないと告げれば、家来として召し抱えてやる」という武田軍の打診を鳥居は受け、磔(はりつけ)柱に括(くく)りつけられました。
しかし、長篠城に向けて柱が掲げられたときに鳥居は「すぐに援軍が来る! それまで耐えよ」と叫んだのです。その瞬間、鳥居は串刺しにされて息絶えましたが、その光景を見て長篠城の兵士たちは奮い立ち、援軍が来るまで持ちこたえたといわれています。
戦い後の武田氏の末路
長篠の戦いで負けた武田氏は、滅亡への一途をたどります。
武田氏の滅亡
長篠の戦い以降、天下統一へ突き進む信長に対し、武田氏の勢力は急速に衰えていきました。勝頼は求心力をなくし、家中の分裂や味方の裏切りが続いた後、1582(天正10)年に勝頼はとうとう居城の新府(しんぷ)城を自ら焼き、家来の小山田信茂(おやまだのぶしげ)の岩殿(いわどの)城へ移ろうとします。
しかし、移動途上で小山田の裏切りを知り、山中で自決しました。このようにして、鎌倉時代から続いた甲斐(かい)武田氏は滅亡したのです。
騎馬戦から鉄砲戦への転換点となった戦い
長篠の戦いは、織田・徳川連合軍が、戦国最強といわれた武田の騎馬隊に勝利した合戦でした。勝敗の決め手は、鉄砲を最大限に利用したことです。
この戦いは、それ以後の戦いの主力が鉄砲になっていく転換点だったともいえます。また、長篠の戦い以降、織田信長は「天下布武(てんかふぶ)」に大きく前進した一方、武田氏は滅亡の一途をたどりました。
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構成・文/HugKum編集部