「前九年の合戦(役)」とは? 東北の歴史に影響を与えた戦いと、その関係者を解説【親子で歴史を学ぶ】

「前九年の合戦」は、今からおよそ1,000年前に起こった大きな戦いです。争いが起きた理由や関係者の人物像を知れば、はるか昔の出来事も、より具体的にイメージできるでしょう。前九年の合戦の詳細を、分かりやすく解説します。

「前九年の合戦」とは、何?

「前九年(ぜんくねん)の合戦」とは、どのような出来事だったのでしょうか。まずは事件の概要をチェックしましょう。

平安時代に、東北で起こった戦い

前九年の合戦は、平安時代の後期に東北地方で起こった戦いです。1051(永承6)年から始まり、約12年間続きました。主戦場は「奥六郡(おくろくぐん)」と呼ばれた地域で、現在の岩手県奥州(おうしゅう)市から盛岡(もりおか)市のあたりに該当します。

前九年の合戦は「前九年の役」との呼び方もあります。もともとは「奥州十二年合戦」などと呼ばれていましたが、後に現在の名称が定着したようです。呼び方が変わった理由には、以下のようにさまざまな説があり、はっきりとは分かっていません。

●約20年後の「後三年(ごさんねん)の合戦」と合わせて「12年の戦い」と誤認された
●途中で、3年程度の休戦期間があった
●一方の大将が交代してからの、9年間を指すようになった

前九年の合戦の主要人物

前九年の合戦は、東北地方の豪族「安倍(あべ)氏」と朝廷が派遣した国司(こくし)との争いでした。合戦に関わる主要人物を紹介します。

陸奥国の豪族「安倍頼時」

安倍頼時(あべのよりとき)」は、この争乱を引き起こした張本人といってもよい人物です。もとの名を「頼良(よりよし)」といいましたが、後に改名しています。

安倍氏は陸奥国(むつのくに、現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県)の豪族で、10世紀後半頃から奥六郡を中心に勢力を拡大したといわれています。朝廷から現地の支配を任されており、頼時の代には「奥六郡の司」と呼ばれるほどの強い権力を持つようになりました。

朝廷から派遣された国司「源頼義」

源頼義(みなもとのよりよし)」は、現在の大阪府を本拠地とする源氏の一族「河内源氏(かわちげんじ)」の2代目棟梁(とうりょう)です。

『前九年合戦絵詞』に描かれた源頼義 Musuketeer.3, Wikimedia Commons

前九年の合戦では、陸奥守(むつのかみ、陸奥の国司のこと)に任じられ、安倍氏と戦います。武芸に優れていた頼義は、苦戦しながらも安倍氏を倒し、合戦を勝利に導きました。

この功績が評価され、戦後は、より高収入が得られる「伊予国(いよのくに、現在の愛媛県)」の国司に任命されています。頼義の働きにより、河内源氏も武家の最高位となります。鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)や、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)は彼の子孫です。

大宮八幡宮(東京都杉並区)。河内源氏の氏神である岩清水(いわしみず)八幡宮を勧請して、1063(康平6)年に頼義が建立した。善福寺川に接する和田堀公園の南側にあり、現在の境内は約1万4000坪で、明治神宮、靖国神社に次いで東京都区内で3番目の広さを誇る。

出羽国の豪族「清原光頼・武則」

清原光頼(きよはらのみつより)・武則(たけのり)」は、争いの勝敗に大きく関わった兄弟です。

清原氏は、出羽国(でわのくに、現在の秋田県と山形県)を勢力圏とする豪族で、近隣の安倍氏とも交わりがありました。しかし光頼は頼義に説得され、弟の武則を頼義軍に参加させます。武則は頼義軍の勝利に大いに貢献し、安倍氏滅亡後は、陸奥国にまで勢力範囲を広げました。

なお、このとき武則の嫡男・武貞(たけさだ)が、安倍軍の将・藤原経清(ふじわらのつねきよ)の妻を後妻に迎えます。彼女の息子が、後に清原家の跡継ぎ問題に関わり、「後三年の合戦」に発展するのです。

前九年の合戦の流れ

前九年の合戦は、ずっと戦闘状態が続いたわけではありません。途中で大将が交代したり、停戦したりと、さまざまな出来事がありました。合戦開始から終戦までの流れを見ていきましょう。

「鬼切部の戦い」から一時停戦まで

前九年の合戦は、1051(永承6)年の「鬼切部(おにきりべ、現在の宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)の戦い」から始まります。

この頃、安倍頼時が納税を怠るなどして朝廷に従わなくなっていたため、朝廷は陸奥守の藤原登任(ふじわらのなりとう)らに頼時討伐を命じます。しかし朝廷軍は鬼切部にて安倍軍に大敗し、登任も更迭されてしまいました。

朝廷は後任として、武勇に優れた源頼義を派遣します。頼義が着任してまもなく、天皇の祖母が病に倒れます。病気平癒(へいゆ)を祈願する大赦(たいしゃ)が実行され、頼時も許されました。

頼時が名前を変更したのは、この頃です。大赦を受け、朝廷に恭順の意思を示した頼時は、自分の名前が陸奥守と同じ「読み」では恐れ多いとして、改名したといわれています。

鬼切部の戦いの地(宮城県大崎市鳴子温泉鬼首)。周辺にある吹上温泉(間欠泉で有名)などを含め「鬼首温泉郷」と呼ばれる。国道108号線にある「鬼切部城跡」の案内板から狭い道路をしばらく登ると、この広々とした標高500mの高原に出る。

「阿久利川事件」で戦いが再開

以降、頼時は朝廷と良好な関係を保つよう努めていましたが、1056(天喜4)年に、再び戦いが始まります。任期満了を控えた頼義が、阿久利(あくり、あくと)川の近くで野営したところ、部下が頼時の息子・貞任(さだとう)に襲撃される事件が起こったのです。

頼義は貞任を呼び出しますが、頼時は応じませんでした。安倍氏謀反(むほん)との報告を受けた朝廷は、再び頼義を陸奥守に任命し、戦いを再開させたのです。

実はこの事件は、頼義の陰謀だったとする説が有力です。着任早々、頼時が恭順してしまい、手柄を立てられなかった頼義が、戦いの大義名分を得るためにでっち上げたと考えられています。

「黄海の戦い」から終結まで

1057(天喜5)年、戦いの傷が原因で頼時が亡くなります。しかし跡を継いだ貞任が抵抗を続けたため、頼義は苦戦を強いられました。

同年末の「黄海(きのみ、現在の岩手県一関市)の戦い」では、頼義は安倍軍の前に惨敗しています。その後、頼義は兵力増強に努め、1062(康平5)年には清原氏を味方につけることに成功します。

援軍を得た頼義は、安倍氏の拠点を次々に攻略していきました。同年9月に、最後の拠点「厨川(くりやがわ、現在の岩手県盛岡市北西部)」も陥落し、安倍氏はついに滅亡します。

多賀城政庁「正殿跡」(宮城県多賀城市)。奈良時代から平安時代に陸奥の国府がおかれ、11世紀中ごろまで東北地方の政治・軍事・文化の中心地だった。1961(昭和36)年の調査で政庁域が確認されている。前九年の合戦でも、頼義はここを軍事的拠点とした。

前九年の合戦から、当時の東北情勢を知ろう

前九年の合戦は、東北地方の有力者安倍氏と朝廷との間に起こった争いです。当時の東北は都から見ると大変遠く、安倍氏のような力を持つ豪族が現れれば、従わせるのも一苦労だったと考えられます。

現在とは大きく異なる平安時代の日本をイメージしつつ、歴史的出来事への理解を深めていきましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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