「生野銀山」の何がすごい? 銀のまち兵庫県生野が支えた日本経済の歴史は、戦国時代まで遡る⁉

「生野銀山(いくのぎんざん)」は、兵庫県朝来市にある銀山で、日本最大の鉱脈が見つかっています。戦国時代から採掘が行われ、江戸時代にも銅やスズが産出されてきた場所で、現在は観光地として知られています。
そんな生野銀山はどんなところなのか、発展の歴史と当時の人々の労働などについて、わかりやすくご紹介します。

生野銀山ってどんなところ?

「生野銀山」は現在の兵庫県朝来市(あさごし)の南端にある鉱山です。現代では観光用の坑道と鉱物博物館がある場所で、経済産業省より「日本の近代化遺産」に認定されています。

兵庫県行政区域図。生野銀山は県中央北部の朝来市にある

生野銀山の発見とその起源

生野銀山では、大同2年(807年)に初めて銀が出たと伝えられています。さらに室町時代に入り、天文11年(1542年)には但馬守護職・山名祐豊(すけとよ)が銀石を掘り出し、これが開坑のきっかけといわれています。

また永禄10年(1567年)には、日本最大といわれる鉱脈が見つかり、「銀山旧記」には「銀の出ること土砂のごとし」と記録されているそうです。土砂が崩れ出てくるように、次々と銀などが見つかったのでしょう。

生野銀山は、それから400年以上にわたり採掘が行われてきた日本屈指の鉱山なのです。

生野銀山の地理的特徴

生野銀山がある場所は、かつて但馬国といわれたところです。ここは全国でも有数の鉱山エリアで、2004年には生野銀山のほか、神子畑・明延という3鉱山エリアが「鉱石の道」と命名されました。現在では中瀬も含めて4鉱山エリアがその対象となっています。

銀が紡ぐ歴史 ~生野銀山の発展

生野銀山記

生野銀山では長い年月、採掘が行われていたとご紹介しました。そんな生野銀山の発展の歴史を見てみましょう。

銀の採掘方法とその変遷

生野銀山が開坑してから、江戸時代になると織田信長、豊臣秀吉および江戸幕府によって「生野奉行」という役職も置かれることになりました。これは生野銀山を管理する人のことで、徳川幕府の財政を支えてきた大切な存在となりました。

その後、近代に入ってからは「サンドスライム充填採掘法」「ずり充填採掘法」「シュリンゲージ採掘法」という採掘法がとられ、採掘された鉱山はベルトコンベアーで選鉱場へ送られていきました。

生野銀山が日本の歴史に与えた影響

生野銀山が最も日本の歴史に影響を与えたと考えられるのが、明治時代でのことです。それまで鎖国によって海外との貿易や交通を規制していた日本は、世界にあらゆる分野で遅れを取っていました。そこで明治政府は、日本の近代化を目指すために西洋の技術を取り入れて、生野銀山を日本初の官営鉱山としたのです。

国家プロジェクトとなった採掘では、外国人技師を招いて海外の最新の鉱山技術などを取り入れていきました。その結果、明治以前までの300年以上の間の銀産量は950トンだったのに対して、明治時代はわずか43年間で136トンを産出。大正時代は14年間で100トンも算出するまでになったのです。

また明治4年(1871年)には日本の基本通貨が銀貨と金貨となり、その原材料となる金、銀、銅、スズなどを産出するためにも、この生野銀山は影の立役者となり日本経済を支えていきました。

銀山の日常と労働~昔の人々の生活

生野町の風景。今もトロッコ軌道跡が残る

日本の歴史にとっても、大きな影響を与えてきた生野銀山。たくさんの銀を産出していたものの、その影には多くの労働者の存在がありました。

鉱夫たちの厳しい労働条件

生野銀山ではかつて多くの朝鮮人が連行され、ここで労働していたといわれています。朝鮮人が連行されたのは1939年頃のことで、最大で3000人もの人がここで労働していたとされています。

また強制連行された人ではなくても、地下の奧深くの真っ暗な中、人々は厳しい労働環境の中で働いていたと伝えられています。

生野銀山と地域社会

生野銀山とともに発展していった朝来市。現在では閉山していますが、坑道に観光客を呼び当時の採掘の様子を感じてもらうなど、生野銀山の歴史を残していこうという動きがあります。

ちなみに生野から続く「鉱石の道」は、採掘された鉱石を運ぶために整備された道です。地下1000mもの、鉱山の奧へ繋がっているのです。

生野銀山の衰退と現在

生野銀山の坑道入口

生野銀山は、昭和中期になると採掘される鉱石の品質が低下したことなどを理由に閉山されました。

産業革命と銀山の衰退

明治維新に国家プロジェクトとして生野銀山での開発がさらに活発になっていくと、明治9年(1876年)には、生野から飾磨港までの馬車道が作られました。これは生野銀山で掘り出した鉱石を港まで運び、船で運ばれてきた機械や物資などが生野鉱山まで届けられるためのものでした。

さらに他のエリアにも馬車道や鉄道が整備され、この地域の発展に貢献していったのです。昭和4年(1929年)には、明延と神子畑を結ぶ明神電車(鉱山鉄道)が完成。生野銀山で採掘した鉱石を各地に製錬していくための産業が、ますます発展していきました。

また水力を利用するダムの建設、トロッコ軌道の建設、鉱山学校の設立など、生野銀山ではさまざまな試みが行われてきました。

今日の生野銀山~観光と教育の場

現代は閉山している生野銀山ですが、現在は史跡として残されています。ここにあるのは、全長1000mにもなる坑道です。年間を通じて約13℃と、ひんやりする坑道を約40分ほどかけて巡ります。さらに坑道を、外側から見ていくこともできます。

併設された鉱山資料館では、江戸時代にここでどんな風に人々が働いていたのか絵が描かれていたり、地下でどんな風に分業が行われていたのか解説されたりしています。

現代では「鉱山」や「採掘」ということ自体、あまりなじみのないことかもしれません。しかし生野銀山は日本有数の鉱山で、これまでの日本の歴史を支えてきた大切な存在です。そんな歴史を体験して学ぶことができるのです。

銀山から学ぶもの~生野銀山と日本の未来

採掘の様子がわかる内部展示

生野銀山から、私たちはどんなことを学んでいけるでしょうか?

環境との共生

現在は鉱物博物館がある生野銀山の周囲は、豊かな自然に囲まれた場所です。春には桜が、秋には紅葉が美しく、生野銀山を訪れるとこの地域の豊かな自然にも触れることができます。そんな地域の環境との共生にも着目してみるといいでしょう。

科学技術の発展と資源の活用

戦国時代のような昔は、採掘の技術や道具も十分なものは揃っていませんでした。しかし時代が進むとともに科学技術が発展していき、より効率的に採掘できるようになっていきました。特に明治時代以降は、海外の技術も導入していきました。生野鉱山博物館では、そんな歴史も学ぶことができます。

銀のまち生野

かつて金が採掘された佐渡島に対して「佐渡の金、生野の銀」といわれたように、生野銀山は銀が採掘できる日本を代表する鉱山でした。そして戦国時代から採掘は始まり、江戸時代、さらに明治時代まで、何百年にもわたり採掘が続けられてきたのです。

また明治維新には、海外の技術を積極的に導入して近代的なモデル鉱山としても発展していきました。そんな日本経済を支えてきた存在であることから、文化庁は日本の歴史的魅力や特色を認める「日本遺産」に生野銀山を認定。地域でもこの文化を守っていこうとしているのです。

そんな生野銀山は、日本の歴史を知り昔の人の労働について学ぶいい資料になるはずです。この機会に、生野銀山の存在に注目して親子で学んでみてはいかがでしょうか。

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文・構成/HugKum編集部

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