「天文法華の乱」は日本で起きた宗教戦争。被害規模は「応仁の乱」以上! そのきっかけと流れとは【親子で歴史を学ぶ】

天文法華の乱は、大きな勢力を持っていた仏教宗派同士の衝突でした。日本で起こった、大きな宗教戦争ともいわれています。二つの宗派が対立した理由や、武力衝突に発展したきっかけ、和解までの流れを分かりやすく解説します。

天文法華の乱は宗派間の争い

天文法華の乱(てんぶんほっけのらん)は、天台宗日蓮宗の間に起こりました。戦いの舞台や概要、それぞれの宗派の違いを見ていきましょう。

室町時代に起きた天台宗と日蓮宗の戦い

天文法華の乱は室町時代の1536(天文5)年に、京都で比叡山延暦寺を総本山とする天台宗と、日蓮宗が衝突した出来事を指します。

当時でも仏教の中で長い歴史を持っていた天台宗が、京都の住民を中心に勢力を拡大していた日蓮宗に対して武装蜂起しました。乱の中では日蓮宗の寺院が焼かれ、京都の町を巻き込んだ大きな戦いへと発展していきます。

天台宗と日蓮宗はどちらも法華経が経典ですが、日蓮宗のほうが新しく生まれた宗派であり、両者の間には多くの違いがあります。

法華経 Wikimedia Commons(PD)

天台宗と日蓮宗の違い

法華経を経典とする宗派を法華宗(ほっけしゅう)と呼びます。法華経は釈迦の最後の教えをまとめた経典のことです。天台宗と日蓮宗はどちらも法華宗の別名を持つものの、教義や本尊(ほんぞん)などが異なります。

天台宗の正式名称は「天台法華円宗」といい、平安時代初期に最澄によって開かれました。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)や釈迦如来(しゃかにょらい)で、「全ての人間や存在は仏になりうる」と教えます。

一方日蓮宗は、日蓮によって鎌倉時代に開かれた宗派です。本尊である久遠の本師釈迦牟尼佛(くおんのほんししゃかむにぶつ)と、法華経、日蓮の教えを重視しています。現在「法華宗」といえば、日蓮宗を指すのが一般的です。

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なぜ天台宗と日蓮宗は対立したのか?

天台宗と日蓮宗は、同じ法華経を経典とする宗派であるにもかかわらず、なぜ激しく対立したのでしょうか?  日蓮宗の勢力拡大や、天台宗と対立するまでの流れを見ていきましょう。

自衛のため武装していく京都の日蓮宗信徒

16世紀の始めごろ、京都の町衆を中心に日蓮宗が急速に広まっていきました。京都市街だけ数えても、布教の中枢となる寺院(本山)が21カ所建立されています。

京都の信徒の中でも特に多かったのは、商工業者である町衆です。そのとき、庶民の多い下京は住民のほとんどが日蓮宗の信徒だったといわれています。

日蓮宗信徒となった町衆は、信者以外に施しを受けたり与えたりすることを避け、京都の自治と自衛のために武装していました。当時盛んだった浄土真宗の一向一揆や、農民の土一揆などとの対立を通し、日蓮宗の信者たちは戦闘的な姿勢を強めていきます。

浄土真宗の山科本願寺を焼き討ち

1532(天文元)年、日蓮宗信徒は一向一揆が京都の町を襲うと聞きつけ、当時の実質的な統治者だった細川晴元(ほそかわはるもと)と手を組みました。日蓮宗と細川晴元の同盟軍は、京都にあった浄土真宗の山科本願寺(やましなほんがんじ)を襲い焼き払います。

山科本願寺の土塁跡が残る山科中央公園(京都市山科区) Wikimedia Commons(PD)

それまでも、京都内外の警備活動や税金の不払い運動という形で、「法華一揆」と呼ばれる自治が行われていましたが、この事件がきっかけで大規模な法華一揆が始まります。

山科本願寺焼き討ちの後、日蓮宗信徒は5年の間、京都市内の自治権を得ました。正式に市内の警護権を手に入れて税金を免除・減額されるなど、勢いを増していったのです。

京都支配をめぐる宗派の対立

日蓮宗が勢力を伸ばしたことで、京都の町で高利貸しを営む土倉(どそう)・酒屋の中にも信徒が増えていきます。土倉・酒屋は多くの税金を納めており、天台宗である比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の財源でもありました。

当時の社会で大きな経済力を持つ存在だったため、土倉・酒屋は土一揆の標的とされることも多かったといいます。

もともと延暦寺は、祭礼に関わる税徴収を通して、土倉・酒屋に強い支配権を持っていました。しかし、日蓮宗の勢力が拡大したことで既得権益を奪われた形になり、延暦寺と日蓮宗との対立が激しくなったと考えられます。

比叡山延暦寺の阿弥陀堂と東塔

天文法華の乱の始まりと終わり

天台宗と日蓮宗の対立が深まっていく中、天文法華の乱はどのようにして始まり、終わっていったのでしょう。争いのきっかけから、戦争の終結までの流れを紹介します。

乱が起こった直接のきっかけは宗教問答

京都で対立関係を深めていた天台宗と日蓮宗ですが、天文法華の乱が起きた原因は宗教問答です。宗教問答とは、異なる宗派間などで教義について議論することを指します。

1536(天文5)年2月に行われた宗教問答で、延暦寺の僧侶が日蓮宗の一介の信徒に言い負かされました。勢力を拡大していた日蓮宗と、面目を失った延暦寺との関係は、より張り詰めたものになっていきます。

こうして天文法華の乱は、宗教問答による勝敗が武力衝突に発展する形で始まりました。

延暦寺と六角氏が日蓮宗の寺院を焼き討ち

延暦寺と日蓮宗の関係が緊迫したことで、守護大名の六角定頼(ろっかくさだより)が仲裁しようとします。しかし失敗に終わり、六角定頼は延暦寺側に味方します。

1536(天文5)年7月、延暦寺は6万人の僧兵を集め、京都にあった日蓮宗の21本山の全てを焼きました。日蓮宗の信徒も応戦しますが、多くの信徒が住んでいた下京は焼失し、上京も3分の1が火災の被害を受けます。

このときの被害は、室町時代中期の1467(応仁元)年に起こった「応仁の乱(おうにんのらん)」を超えるものだったと伝わっています。日蓮宗信徒は京都を脱出し、大阪の堺に逃げるほかありませんでした。

応仁の乱を超えるといわれる「天文法華の乱」の戦災規模(イメージ)

日蓮宗の布教活動禁止を経て和解

日蓮宗の寺院が焼き討ちされた後、細川晴元によって京都における日蓮宗の宗教活動が禁じられました。堺に逃げ延びていた日蓮宗の信徒は、京都への帰還を求めて室町幕府に何度も申し入れをします。

何年も経ってから、天皇の許可が下りて日蓮宗の布教活動が許されると、六角定頼の仲介で天台宗と日蓮宗の和解が成立します。

日蓮宗信徒が京都に戻った後、天文法華の乱で焼き討ちされた本山のうち15カ所が再建されました。

天文法華の乱は京都に大きな被害をもたらした

天文法華の乱は、京都の市街にあった日蓮宗の本山全てが焼かれ、大きな被害をもたらした事件です。延暦寺との宗教問答の結果が引き金となりましたが、裏には日蓮宗の勢力拡大によって、延暦寺がこれまで持っていた京都の利権を得られなくなったという問題がありました。

天文法華の乱は、室町時代における宗教勢力の大きさを理解するためにも、重要な事件だといえます。より深く歴史を学びたい人は、仏教が日本史に与えた影響について調べてみるとよいかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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