【第2回】現在ロンドンで3人の子ども(9歳,9歳,6歳)を育てるライターの浅見実花さん。東京とロンドンの異なる育児環境で子育ての「なぜ?」にぶつかってきた彼女にとって、大切なことは日々のふとした瞬間にあるのだそうです。まずはちょっと立ち止まって、自分なりに考えること。心の声に耳を澄ましてあげること。そういう「ちょっと」をやめないこと。この連載では、そうしてすくい取られたロンドンでの気づきや発見、日本とはまた別の視点やアプローチについて、浅見さんがざっくばらんに&真心を込めて綴っていきます。
第2回は大人も気になる、生産性に関するトピックです。ロンドンの公立小学校でのひとコマに、浅見さんが立ち止まります。
年度はじめ。子どもたちの通う小学校に行ってきました。
一般的に、イギリスの公立小には始業式がありません。いきなり授業が始まるのですが、保護者のほうは後日校舎に招かれて、あたらしい担任の先生たちのご挨拶や年間の学習方針、活動計画について知る機会を与えられます。参加はいちおう自由ですが、じっさい多くの親たちが早々に仕事を切り上げ、いそいそと学校へ集まってくるようです。
保護者会で、先生の驚きのひとことが
双子の学年、4年生を担当するショー先生は、見るからに落ち着いたイギリス人の男性教師。しょっぱなから小声でボソッとジョークを飛ばして聴衆をリラックスさせたあと、すっと本題に入るあたりはベテラン感が漂います。
ほどなくして、電子黒板に「宿題について」というスライドが登場しました。
「あ、来たな、宿題」
私は記録のためにスマホを取り出し、スライドにカメラを向けます。小学校高学年ともなれば、宿題のボリュームも増えることが予想されるわけですが、その宿題を支援するのは一般的に親の役目と言われています。教室に集まった親たちが、思わずその身を数センチほど乗り出した瞬間。ショー先生はこんなふうに言いました。
「どうか、宿題に時間をかけすぎないでください」
私はあれっと思いました。てっきり「宿題をちゃんとやれ」かと思ったら、「宿題に時間をかけるな」というメッセージだったからです。いったいどういうことなのか、まずはショー先生の話を聞いてみてください。
宿題に時間をかけるなというメッセージ、その意味は?
「お子さんたちは忙しい毎日を送っていると思います。学校のあとは課外活動。サッカー、テニス、音楽、ダンス……。疲れて帰って、ご飯を食べて。そのあとは宿題です。でも、そこでなかなか宿題が終わらなかったらどうでしょう? 考えてもわからない、いっこうにはかどらない。そうこうするうちますます夜はふけていく。『どうしよう、宿題が終わらないよー』お子さんはもう半泣きです」
「本当にそこまでする必要があるのでしょうか?
いいえ。お子さんだって、忙しい1日のあとには好きな本を読んだり、楽しみにしていたテレビ番組を見たり、リラックスしたいのです。なので宿題にかける時間は30分でけっこうです。それに見合った課題を出していきます。ただし、集中して取り組むこと。それ以上考えても分からなければ止めてもらってかまいません。そして翌日、お子さんをわれわれのところによこしてください。お子さんがどこでつまずいているのか、見極めさせてください。それをするために教師がいるのですから」
私は思わず聴衆に目をやりました。親たちがいったいどんなリアクションをするのか、確かめずにはいられなかった。映画館でクライマックスを迎えたとき、そっと後ろを振り向きたくなる感覚で。するとみなさん、さも満足そうな表情でウンウンと頷いているわけです。「そりゃあそうだよね」と言わんばかりに。
この学級にはさまざまな職業を持つ親———たとえば教師、セラピスト、ジャーナリスト、事務員、外科医、配送ドライバー、不動産エージェント、美容師、銀行員、レストラン店主など————がいるのですが、みんな一様にショー先生の発言にうなずいている。ロンドンで働く親たち、その年齢も人種も宗教もまったく異なる人びとが、そこで確かにつながって、共感が生まれている。
「うん、わかるよ」
「確かにそれはそうだよね」
ロンドンの人って、どうしてこんなに働かないの?
それで思い出しました。東京からロンドンにやってきた8年前のことです。当時東京の「働く」感覚が染みこんでいた私にとって、「ロンドンの人ってどうしてこんなに働かないの?」と思わない日はないほどでした。
たとえば、問い合わせたメールがなかなか返ってこない。下手をすると放置されるが、かといって悪気はない。慣れるまで「おかしいなあ、どうしたんだろう」と首をかしげる日々がつづきます。また、こないだ休暇を取っていたなという人が、つぎに連絡したときも別の休暇に入っている。メールを送った瞬間、自動返信機能でもって、しれっと跳ね返されるわけです。「○日から○日までは不在です。緊急の連絡先は×××」。そして全体的に、帰宅時間の早いこと。一部の職種はのぞきますが、多くの人が夕方には仕事を切り上げ、そのまま家に帰るなり、パブに立ち寄り社交するなり、なんだか気楽にやっている。そしてさらに不思議なことに、それでも社会は回っている。東京の暮らしのように超スピーディでも、超便利でもないけれど、気づけばなんとか動いている。
これ、ロンドンで働く外国人の方がたにお話を伺いましたが、どうもこちらの人びとは、時間を効率的に使うこと、サッサと仕事を終わらすことに並々ならぬエネルギーを注いでいるようです。たとえばそれは、プロジェクトのはじめの段階で、本当にやる価値があるのかを徹底して見極めることだったり(やる価値がないと判断されたとき、そのプロジェクトは消滅する)、とにかく夕方6時になったら帰ってしまうことだったり。また、過度な品質・完成度を追うことに多くの時間を投入しない。そのかわり(ここがミソですが)相手からも過度な品質・完成度を求めない。そもそも満点を狙わない。それによって多少の不便が起きたとしても、よほどのことがない限り、「しょうがないなあ(まあ、自分にもそういうことがあるかもしれないし)」と溜め息をついたあと、わりに平気で対処のしかたを考える。そんなお互いさまのテキトー加減とセットになって、限られた時間の中で生産性を上げていく。
だれだって好きなことをしたい。子どもも大人も
もちろん生産性の切り口だけで物事は片づかない。それとはむしろ対局的に、効率や必要性とは別のところで産み落とされる価値もあるかと思います。その人にとって、根っこのところで苦痛にならない、おそらくそのたゆまぬ試みと健全な野心の中で……。
それでも、ショー先生の話を聞いて、私はなるほどと思いました。というのは、やりたくないけどやらなきゃいけないこと、どうしようもないタスクって、現実的にはまだまだあると思うから。だから好きなことをするために、いまここにある義務パート、そのどうしようもないゴタゴタをどう片づけるか、っていうのがあって。(その現実に堂々とサヨナラを言えるような子どもや大人が、じっさいどれほどいるんだろう?)
そんなふうに思ったら、生産性という発想を取り入れるのは、大人になってからなんだっけ、と。延々と時間を投入しないことだとか、やめどきの頃合いが肌感覚でわかるとか、そういうことって身体感覚に近いのかもしれません。たとえば「おっ、この穴はジャンプしたら落ちるかも」というような、カラダに関する感覚があるとしたら、そのアタマ版みたいなもの。その感覚を日々の暮らしの中でしぜんに育んでいく。
そんなわけで。生産性を上げた先に待っているのは何なのか。自分の好きや関心をどれだけ開墾できるのか。いつの日か拡大している余暇や自由な時間の中で、私たちは何をしたいと願うのか。何が好き、何をしたい、そういう気持ちは子どもたちには忘れないでいてほしいな。