乳児期の子育ての課題は、「人を信頼することができるように育てる」こと
子どもの精神科医として半世紀以上、私が学び、臨床現場で検証してきたなかで、もっとも意味深いと思う発達論のひとつに、エリク・H・エリクソンという人の発達論があります。
彼は人間が生まれた直後から死の直前まで幸福に生きていくためのひとつの理想的な発達モデルとして、「ライフサイクル・モデル」を提唱しました。乳児期から老年期まで、どういうことに気をつけて、どのような課題をしっかり消化していくべきかを示しています。
エリクソンが乳幼児期の育児課題としてあげているのは「人を信頼することができるように育てる」ということ。これを「基本的信頼」(ベーシック・トラスト)と名付けました。
人生のスタートでもっともたいせつに育てられなければならないことは、「人を信頼すること」なのです。
では、どうしたら、人を信頼できる子育てができるのでしょうか?
乳児期の育児には過保護といえることはありません
それは、自分が望んだことを望んだとおりに十分にしてもらうことです。
赤ちゃんがいるお母さんやお父さんたちは、ぜひとも赤ちゃんが望むように接してあげてほしいですね。赤ちゃんが望んでいることならば、なにをどれだけしてやっても、やりすぎということはありませんよ。乳児期の育児には過保護ということはないのです。
なぜなら、赤ちゃんというのは、自分の要求を何ひとつ、自分で叶えることはできません。おむつが濡れて気持ち悪くても、それを取り換えることはできません。空腹であっても、おっぱいを自ら飲むことができないし、暑苦しくても、部屋の温度を調整することもできません。さびしくても、そのさびしさを自分で癒やすこともできないんですよね。
すべて他者の手を借りなければ、自分の要求を充たすことはできないのです。
だから、赤ちゃんは泣くのですよね。泣くことだけが赤ちゃんができる努力だからです。泣くことで、親をはじめとする周りの人に自分の希望を伝えているわけです。
そして、その伝えた希望が望んだとおりに叶えられれば叶えられるほど相手を信じるし、ひいて言えば、自分が住んでいる環境や、地球、世界を信じることができるのです。
自分の願いが叶えらることの積み重ねで、希望をもって努力することを学びます
そのうえで、そのように願いが叶えられた赤ちゃんというのは、自分で希望を持てば、そして努力をすれば、それらのことは多く実現するものだ、ということも学ぶことができるんですね。
ですから、お母さん方は泣き続けるわが子に頭を抱えるのではなく、もし泣いてばかりいるな思ったら、「うちの子は努力家なのだな」と思って、できるだけ願いを叶えてあげてほしいのです。そうした子どもは、きっと幸せに生きていくことができます。
「授乳と抱っこ」。赤ちゃんをめぐる実験的育児でわかったこと
エリクソンの発達論は、ほかの研究でも実証されています。
もう半世紀以上も前のことですが、ヨーロッパの学者や研究者、臨床家の間で赤ちゃんが望んでいることは、どんなことでも無条件で満たしてあげたほうがいいか、そうしないほうがいいかで、意見が分かれていた際に、次のような実験的育児をしました。
「泣いても深夜には授乳をしない」「望む度に授乳をする」赤ちゃんを二つのグループに分けた実験
赤ちゃんを2つのグループに分けて、一方は泣いても深夜には授乳をしない。昼間も規則正しく乳児院のやり方で定時授乳をする。もう一方は、赤ちゃんが望むたびに授乳をしたり、だっこをしたり、あやしてあげたりしてあげたのです。
前者の「泣いても授乳をしない」グループは、深夜の授乳をしないと決めると、早い赤ちゃんで3日、たいていの赤ちゃんは1週間前後で、翌日まで泣かないで待てるようになりました。2週間を超えても、なお泣き続ける子は例外的にしかいませんでした。
その様子を見て、一部の研究者は「翌日の朝までおっぱいを待てる子どもは忍耐強く、現実認識がしっかりした、かしこい赤ちゃんになるのではないか」と考えました。
授乳を待てず、泣き続けた赤ちゃんは努力をし続ける子どもに育った
しかし、そうした子どもたちをずっと追跡し、観察を続けたところ、得られた結論は真逆のものでした。3日ぐらい泣いて翌日まで待てるようになった子どもは、忍耐強い子どもではなく、むしろ困難に対して早くギブアップする子どもだという結果が導き出されたのです。
その反対に、2週間以上も泣き続けた赤ちゃんのほうが、簡単にはギブアップせずに努力をし続ける子どもに成長したこともわかったのです。
要するにダメなものはダメだとすぐあきらめる子と、何事にもすぐにはあきらめない子、そんな風に表現してもいいかもしれませんね。
基本的信頼感が育まれたのはどちらのグループ?
もちろん、これは各人が生まれ持ってきた素質や個性の違いによるところが大きいのかもしれません。しかし、これらの結論以上に、この実験と観察においては、もうひとつとても重要な結論が得らました。
後者の「泣く度に授乳された」グループの子どもたちは、自分を取り巻く周囲の人や世界に対する信頼と、自分に対する基本的な自信の感情が育まれてくることが分かったのです。
また、その一方で、願いが叶えられなかった前者の子どもたちには、周囲の人や世界に対する漠然とした、しかし根深い不信感と、自分に対する無力感のような感情をもたらしてしまうことも判明したのです。
これらの研究からもわかるように、赤ちゃんの願いを聞いてあげることはとても大事なことなのです。お母さんやお父さんは、ぜひこのことを頭に留めて、お子さんに接してあげていただきたいですね。
記事監修
1935年、群馬県生まれ。新潟大学医学部卒業後、東京大学で精神医学を学び、ブリティッシュ・コロンビア大学で児童精神医学の臨床訓練を受ける。帰国後、国立秩父学園や東京女子医科大学などで多数の臨床に携わる傍ら、全国の保育園、幼稚園、学校、児童相談所などで勉強会、講演会を40年以上続けた。『子どもへのまなざし』(福音館書店)、『育てたように子は育つ——相田みつをいのちのことば』『ひとり親でも子どもは健全に育ちます』(小学館)など著書多数。2017年逝去。半世紀にわたる臨床経験から著したこれら数多くの育児書は、今も多くの母親たちの厚い信頼と支持を得ている。
構成/山津京子 写真/繁延あづさ