55年体制は、近代日本の政治を語るうえで欠かせない重要なキーワードです。昭和から平成にかけて40年近く続き、現在の政治体制にも大きな影響を与えています。55年体制の特徴と、成立から崩壊までの流れを解説します。
55年体制とは、どんなもの?
「55年体制」という言葉を聞いたことがあっても、詳しい内容までは知らない人も多いのではないでしょうか。名前の由来や、体制の概要を見ていきましょう。
1955年に成立した体制
55年体制とは、自由民主党と日本社会党、この二大政党による政治的対立を表す言葉です。1955年(昭和30年)の総選挙をきっかけに成立したことから、55年体制と呼ばれています。
55年体制の成立以降、国会では議席の約2/3を自由民主党が、残りを日本社会党が保持する、2対1の構造が続きます。
自由民主党は、「与党」として長く日本の政治を動かしていましたが、1993年(平成5年)の総選挙で敗れたことで、38年間続いた55年体制は崩壊しました。
55年体制が成立した背景
55年体制の中心だった二大政党は、どのようにして結成されたのでしょうか。当時の日本と、それを取り巻いていた世界情勢も含めて見ていきましょう。
分裂していた日本社会党の統一
日本社会党は、1947年(昭和22年)の総選挙では、与党となったほどの大きな革新勢力でした。しかし、51年(昭和26年)の「サンフランシスコ平和条約」への賛否をめぐって内部対立が起こり、「右派」と「左派」に分裂してしまいます。
一方、55年の総選挙で与党となった保守勢力の日本民主党と自由党は、「憲法改正」を目指していました。そこで、改憲に反対の立場だった日本社会党は、左派と右派を合わせると、改憲阻止に必要な1/3の議席を確保できるとして、力を合わせることを決めたのです。
こうして、55年体制の一端を担う、「最大野党」が誕生しました。
保守合同を実現
日本社会党が統一されて、大きな革新勢力となったことを受け、保守勢力の日本民主党と自由党も合同を実現させます。日本社会党が統一された翌月には、両党が合併した「自由民主党」が結成されました。
合同によって、自由民主党は議席の2/3弱を有する最大勢力となりますが、日本社会党の存在があったため、一党独裁とはいきませんでした。
冷戦の影響も
55年体制の成立には、「冷戦」も影響しています。戦後すぐに、「世界」は自由主義圏と社会主義圏に分かれて対立する、冷戦時代に突入します。日本の立場は、自由主義圏のリーダーであるアメリカ側でした。
日本を主権国家として認めるための「サンフランシスコ平和条約」では、社会主義圏の大国・中華人民共和国が会議に招かれず、ソ連も調印を拒否しています。
そのような情勢の中で、社会主義的な思想を持つ革新勢力が台頭することを、日本もアメリカも懸念するようになりました。保守勢力の合同には、国内での社会主義思想の拡散を抑え込む目的もあったのです。
55年体制下の政治の特徴
55年体制のもとでは、政治は、どのように行われていたのでしょうか。主な特徴を見ていきましょう。
自由民主党が優位に
55年体制の最大の特徴は、二つの大きな政党が対立していたにもかかわらず、自由民主党だけが与党であり続けたことです。
アメリカやイギリスのように、「二大政党制」の国では、選挙の結果で与党と野党が入れ替わるのが一般的です。しかし、55年体制下の日本では、常に自由民主党が議席の過半数を獲得していました。
55年体制が成立した当時、自由民主党は、アメリカの主導で作った憲法の改正を目指していました。しかし改憲に反対する日本社会党が議席の1/3を取ったため、総議員の2/3以上の賛成が必要な憲法改正の発議は、なされないまま年月が経ちます。
やがて、憲法に日本人がなじみ、受け入れるようになると、自由民主党は改憲を目標とするのをいったんやめて、経済の発展など、時代のニーズに合った政策を推進するようになりました。
一方で、「護憲」を大切にし続けた日本社会党は、時代遅れとみられ、その人気は低迷します。何度、選挙しても議席数が増えず、逆に徐々に減っていく有り様でした。こうして40年近く、与党と野党の入れ替えのない、安定政権が続いていきます。
自由民主党について
自由民主党の重要人物として、まず挙げられるのが「鳩山一郎(はとやまいちろう)」です。
1954年(昭和29年)に日本民主党を結成して内閣総理大臣に就任し、55年の保守合同を経て、56年には自由民主党の初代総裁となり、ソ連との国交回復を実現しました。
その後は、鳩山一郎の前の総理大臣・吉田茂(よしだしげる)のもとで学んだ政治家が、相次いで総裁を務めるようになります。
「国民所得倍増計画」を進めた第4代・池田勇人(はやと)、「非核三原則」で有名な第5代・佐藤栄作(えいさく)、「日中国交正常化」を実現した第6代・田中角栄(かくえい)は、皆「吉田学校」の出身者でした。
池田勇人の影響を受けた、第15代総裁の宮澤喜一(きいち)のように、吉田茂の孫弟子とも呼べる政治家などもいます。吉田学校出身者には元官僚が多く、政財界とも深くつながりがあったため、自由民主党の一大勢力となったのです。
「一と二分の一政党制」と呼ばれる
自由民主党と日本社会党の議席数があまり変わらなかったのも、55年体制の特徴といえます。自由民主党は圧倒的に優位な立場でしたが、いつも日本社会党が議席の1/3は確保するため、憲法改正に必要な2/3以上の議席を獲得できません。
とはいえ、日本社会党も与党になれるほどの支持は得られず、議席の獲得比率は2対1のまま推移していきます。このため55年体制は「一と二分の一政党制」とも呼ばれています。
二大政党制でも一党独裁制でもない、独特の体制だったといえるでしょう。
55年体制の崩壊までの流れ
優位だった自由民主党にも、ついに選挙で負ける日がやってきます。55年体制が崩壊するまでの流れを見ていきましょう。
議員の汚職
戦後、日本の発展を支えてきた強い自由民主党も、汚職の発覚や離党者の増加によって、力を失っていきます。特に田中角栄が起こした「ロッキード事件」(1983)は、国民の自由民主党に対する信頼を大きく裏切るものでした。
それでも、他に支持するほどの政党がなかったこともあり、自由民主党の優位は続きます。しかし、「リクルート事件」(1988)、「東京佐川急便事件」(1992)という大きな汚職事件が立て続けに起こったことで、国民の信頼はさらに低下していきました。
追い打ちをかけるように、直後の参院選(1992)で自由民主党は、ついに議席の半数以上を失うことになります。
内部分裂や多くの離党者
参院選敗北後も、政権は維持していた自由民主党ですが、派閥間の対立によって分裂が進み、離党者が続出します。
元熊本県知事・細川護熙(ほそかわもりひろ)、元大蔵大臣・羽田孜(はたつとむ)、元滋賀県知事・武村正義(たけむらまさよし)など、有力な党員が自由民主党を見限り、新しい政党を立ち上げる「新党ブーム」が起こりました。
多くの党員を失った自由民主党は、1993年(平成5年)の総選挙で惨敗し、ここでも過半数を割ってしまいます。
非自民連立政権の誕生
選挙で躍進した新党を中心に、非自民政党8党が手を組み、細川護熙を首相とする連立政権が誕生します。この1993年において、自由民主党は、結党後はじめて野党に転落し、55年体制も崩壊しました。
連立政権は、長くは続きませんでしたが、自由民主党の絶対的優位を終わらせた大きな出来事として、日本の政治史にその名を残しています。
戦後の日本の政治を学ぼう
戦後、憲法改正や社会主義勢力の抑制を目指して結成された自由民主党は、後に、55年体制と呼ばれる安定政権を実現し、40年近くも日本の政治を主導することになりました。
細川連立政権の誕生で野党となるも、すぐに復活して、現在も政権をにぎっています。一度信頼を失った自由民主党が復活できたのも、他の党がなかなか政権を取れないのも、長く続いた55年体制の影響かもしれません。
ニュースなどで政治や選挙の話題になったときに、子どもに正しく伝えてあげられるよう、戦後の日本政治をけん引した55年体制について、しっかりと学んでおきましょう。
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構成・文/HugKum編集部