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わざと正解を教えない、だから問題がわかる!
――まず、「いもいも」の勉強のしかたを教えてください。この教室では、塾なのに、成績を上げようとしないし、そもそも問題の解き方は教えないんですね。
僕の授業では、僕が解答を出しません。解答を出すとみんながそっちに寄せてしまうから、自分のやりかたでやらなくなるんです。
生徒たちの解答は、正答もおもしろいけれど、誤答がおもしろい。誤答をすることで、自分の「無意識=あたりまえ」に焦点を当ててそれを意識化して考え通すことができる。正答よりも誤答が宝、最高の教材なんです。
正答も誤答も生徒同士でシェア。誤答もうらやましがられる!
僕の出身校であり、今も教鞭をとる栄光学園の授業では、ひとつの問いに対してのそれぞれの解答を、みんなでシェアします。みんなの解答をプリントにまとめて、次の授業で配るんですね。
1問で正答5つ誤答5つあったら、10の考え方がわかる。これってすごいでしょう。できたとかあってるとかどうでもよくて、「君はこう考えたんだね!」というところに、それぞれの解答を見ながら講師も生徒も感動するわけです。
そうやってこちらが「できる、できない」ではなく解答までのプロセスを大切にしていれば、子どもたちの学びも変わります。問題が解けても、彼らはもっと別のやり方がないのか、別解を探すようになります。
生徒が悔しがるのは誤答だっていうことじゃなくて、「あー、俺の解答は正答にも誤答にも載ってねぇ」って(笑)。
1週間は1周だから8日? そんな考えもアリ!
――正答だと○でよし、誤答だとバツでダメ、ではなく、その子が一生懸命に考えた答の過程に価値があるっていうことですね。
僕自身のことで言うと、小1のときのテストで「信号の色は何色ですか」っていう問題があって、最初、「赤、青、黄色」って書いたんです。でも書いたあとふっと思って、「あれ、青じゃなくて緑だよな」って。でも、信号の言い方として「青信号」と言うからバツだと。
もうひとつ、「1週間は何日ですか」っていうのがあって、最初「7日」って書いたんだけれど、「1週間って一周だから、月曜日から月曜日までで8日じゃないか?」って思って「8日」って書いたんです。で、バツ。
バツといえばバツかもしれない。でも、本当はあっているかいないかではなくて、「そうか、そう考えたんだね」「たしかに緑だ」と。考えた過程を理解し、確認することが大事なのです。
僕の授業は、生徒がしぜんに学んだことが授業になっているから、無理していないから、おもしろがってくれるんじゃないかな。
先生と生徒が「主従の関係」。それに悩み続けた
――そのような授業なら、子どもは楽しくてたまらないですね。でも、現実には、学校の授業ではなかなか余裕はなく、学年で決められた範囲にどんどん正答を出して、カリキュラムを終えている印象があります。
学校では「できるようにしなきゃ、何か身につけさせなきゃ」という発想にとらわれがちです。先生は真面目な人が多いですし、先生自身がそれを自分にも求めるから、キツいと思います。
それに、そもそも学校って、先生と生徒、という時点で主従関係が成り立ちやすい状況にあります。その関係を、子どもも保護者も了解している状態です。なので、うまくいかないと、この主従関係を使って「言うことを聞かせる」に走ってしまう。先生は常にそういう状況に置かれています。
僕は20代から30代の前半まで、そういう「うまく言うことを聞かせている」自分を発見してはいやになる、の繰り返しでした。生徒に対して向き合うのだけれど、ガーッと一方的に子どもを怒っちゃうこともあった。同僚は「しょうがねぇよ、あいつあんなことしたんだし」って正当化してくれる。子どもも親もそうそうって思ってくれちゃう。
こういう、怒ることが正当化される立場で、それをうまく使っている自分がいやでしかたがなかったので、あるとき自分の中で、「どんな怒りも正当化できない」と言葉にして、自分の中に置いたんです。いや、いつも怒らないってわけではないですよ。感情なんてコントロールできないから。でも、そのことで「今、自分がこういうことしたけれど、本当はこうだったな、相手が悪いんじゃなくて、自分の不安からやってしまったことだな」と内省できる。
それでますます苦しくなるんだけれど、僕の教員人生の中で、こうして自分と向き合うことから逃げなかったのが、本当に大きかったです。
これ、子育ても同じじゃないですか?
不登校の子は学校や世の中のゆがみを敏感に感じ取る
――先生の話を聞いていると、不登校の子が、なぜ学校に行けないのかの根っこの部分が、なんとなくわかるような気がしてきました。
不登校の子はだいたい共通して、ものすごく繊細なんです。大人の意図をすぐにとらえ、学校や世の中にあるゆがみみたいなものをいち早く敏感に感じ取るんです。繊細すぎる子は、友達が怒られているのを見ても学校に行けなくなっちゃう。そういう子は、ものすごくいろんなものを見ているんです。
一方、先生に言われなくても手をまっすぐ上に上げて「はーい!」なんていうのを、変だと感じないでできる子っていうのは、鈍感なんですよ。変だと思うのに、できちゃう。そして評価されることを受け止める。評価の中でうまくやって自分のやりたいことがやれるならいいと思うんですよ。
でも、不登校になるような子は、そういうの、できないんですよ。本質的でないことをがまんしてやり過ごすことができない。言い換えると「イキイキしないではいられない子」なんです。
――学校では「やらなければいけないこと」がたくさんあって、それに対して立ち止まる子のペースに合わせることが難しい、ということもあるかもしれません。先生も求められることがたくさんあって忙しく、ひとりひとりに対応したくてもできない……。
そうですね。今は、学校はきちんとしないといけない。先生も生徒も。でも、子どもにとっていつもきちんとしていないといけないのは、不自然なんですよ。学校も先生も子どももきちんとしていることを求められて、みんながキツい方向に行ってる気がします。
成績をデータ化し、提出物で評価するとおもしろくない
それと、パソコンで成績をデータ化するようになったのも、学校が窮屈になる関係しているように思います。テストの成績を全部保存してそこから成績を導き出す。テストをたくさんすることで成績のつけかたを標準化する。
提出物を出したかどうかも、そのデータに組み入れますよね。そして、「提出物を出していれば赤点にしない」みたいなことをやる。それって、言われたことをちゃんとやるかどうかという、「真面目さを評価する」ということじゃないですか。そうなると、子どもは評価に沿おうとするから、「勉強に対して真面目な姿勢を見せるための勉強」になってしまい、おもしろくもなんともなくなるわけです。
学校は人がいて時間がたっぷりあって、場所がいつでもある
――でも、本来、学校は子どもにとって楽しいところであるはずですよね。
僕はずっと栄光学園という学校の専任だったのですが、3年前から非常勤講師になった。それと並行して、「いもいも」の教室もやっているわけですけれど。学校から半歩外に出てより思うのは、学校ってすごいなぁということです。
まず、あれだけ人がいる。時間がたっぷりある。毎日、朝から夕方までじゃないですか。それに、学校という場所があるっていうことがすごい。教室が常に用意されていて、「今日は外でなんかやろう」って思うとグランドがあるじゃないですか。なんでもできますよね。
人がたくさんいるだけですでに多様でしょう? 「多様、ダイバーシティをやらなくちゃ」なんて思わなくても、「いもいも」の授業でもわかるように、ひとりひとりの生徒が考えていること、やろうとしていることが価値で、それを共有することでめっちゃおもしろいことが起こる。学校だと人数がもっと多いから、もっとおもしろいことが発見できる。
子育てに苦しむのはいいじゃん、むしろ順調
なのに、人がたくさんいてどんなことが起こるかわからなくて怖いと思って「コントロールしよう」と思った瞬間に、ひとりひとりが違うことがじゃまになるし、人数がたくさんいるから教育しにくくなるってなっちゃう。
自分も含めて、教師が「生徒ひとりひとりを大事にするとはどういうことか」に常に向き合って、自由に哲学して試行錯誤していくことなんだろうな、と思いますね。「こうやったらうまくいくよ」というノウハウでやっていくのは不自然なんですよ。人はひとりひとり違うし、人は思い通りにならないっていうのはわかっていることでしょう? 思い通りにならない子がいるっていうことは、その子のせいではなくて。どう向き合うかということ。
これもまた、子育てと同じかな、と思うんです。だから僕は、
「子育てで苦しむのはいいじゃん、むしろ順調」だと思うんですね。
インタビュー記事最終回では、「キラキラしないではいられない」不登校の子たちの輝きや、森の教室について語っていただきます。
井本陽久(いもと・はるひさ)/ 栄光学園数学教師。花まる学習会にて『いもいも教室』を主宰。栄光学園中学高等学校、東京大学工学部卒業。長年、生徒と共に児童養護施設で学習ボランティアを続ける他、福島県飯舘村の飯舘中学校特別講座を定期的に開催。東京都西多摩郡檜原村では森や川で過ごし自ら考える力を育む「森の教室」も「いもいも」として主宰。その生き方と活動は、『いま、ここで輝く。』(おおたとしまさ著)、NHK総合『プロフェッショナル 仕事の流儀』(2020年1月放映)で詳しく紹介されている。
取材・文/三輪 泉 撮影/五十嵐美弥(インタビューカット)