長い歴史を持つローマ帝国。繫栄した理由や、滅亡までの流れを知ろう【親子で歴史を学ぶ】

ローマ帝国は、世界史の授業に必ず登場する有名な古代国家です。映画や小説のテーマとなる機会も多く、遺跡の一部は人気の観光スポットにもなっています。繁栄から滅亡までの歴史や国の特徴、有名な皇帝など、ローマ帝国の基礎知識を解説します。

ローマ帝国とは

「ローマ帝国」は、イタリア半島を中心に、ヨーロッパで繁栄した巨大国家です。古代のヨーロッパにおいて、ローマ帝国とは、どのような存在だったのでしょうか。

ヨーロッパの基盤となった国家

ローマ帝国の始まりは、紀元前8世紀ごろといわれています。イタリア半島を統一した後に、四方へ領土を拡大し、1~2世紀には地中海沿岸の全域、および現在のフランスやイギリスの一部まで支配する大国に発展しました。

後に東西2国へ分裂するも、「東ローマ帝国」は1453年まで続きました。歴史の長さも国土の広さも圧倒的なローマ帝国は、後のヨーロッパ社会の基盤となります。

帝国が築き上げ、後世に残した事績は現在も高く評価され、「ローマは一日して成らず」のことわざも生まれました。

フォロ・ロマーノ(イタリア・ローマ)。東西約300m、南北約100mにわたる、ローマ帝国の政治・経済の中心地「フォルム・ロマヌム」の遺跡。発掘は19世紀から本格的に行われているが、さまざまな時代の遺構が混在していて調査は困難を極めているとか。

ローマ帝国の始まりから滅亡まで

ローマ帝国は、どのように始まり、どのように終わったのでしょうか。長い歴史を、4段階に分けて解説します。

勢力を拡大する共和制ローマ

ローマ帝国の起源は、紀元前753年に「ロームルス」が築いた都市国家とされています。当時は王が統治していましたが、紀元前509年に7代目の王タルキニウスが追放され、共和制に代わりました。

「共和制ローマ」で政治の実権を握ったのは、貴族で構成される「元老院(げんろういん)」です。元老院から選ばれた二人の「コンスル(執政官)」が、主に政治を担いました。

しかし経済が発展し、平民層の発言力が強まると、貴族との間に「身分闘争」が起こります。闘争の結果、コンスルの一人は、必ず平民から選ぶ法律が制定されるなど、民主化が進みました。

その後、イタリア半島を統一したローマは「ポエニ戦争」を経て、北アフリカのカルタゴからシチリア島を奪って属州とします。最終的にカルタゴを滅ぼすと、次はギリシアやマケドニア方面へ勢力を広げていきました。

共和制が終わり、帝政に

共和制ローマでは、中小規模の農民が征服戦争に駆り出されていました。このため、領土が拡大するにつれて彼らの暮らしは困窮し、軍隊の維持も困難になります。一方では、広大な農地や奴隷を手に入れた富裕層が台頭し、格差が深刻化しました。

紀元前133年、平民の代表を務めるグラックス兄弟が格差解消を目指しますが、失敗に終わります。以後、ローマでは約1世紀にわたって混乱状態が続き「内乱の1世紀」と呼ばれました。

紀元前27年、内乱を終結させたオクタヴィアヌスが、元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を与えられ、初代皇帝の座に就きます。オクタヴィアヌスの即位によって、約500年続いた共和制は終わり、「帝政ローマ」がスタートしました。

200年平和が続いたローマ帝国

オクタヴィアヌスの即位から約200年、ローマ帝国は平和な時代が続きます。「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれるこの時代に領土は最大となり、属州の人々にも平等に市民権が与えられました。

広大な領土を治めるために、法律の制定や土木・建築工事、交易も盛んになります。豊かになった民衆は、コロッセオ(円形闘技場)やテルマエ(大浴場)に足を運び、娯楽に興じました。

ローマン・バス遺跡(イギリス・バース)。イギリス西部のバースは、古代ローマ時代から豊かな天然温泉が湧く町。紀元65年にローマ人が建てた大浴場へ、ローマ帝国の各地から訪れた。現在でも温泉が湧き出ているが、入浴は禁止。

特に「五賢帝」と呼ばれる、以下の5人の皇帝が治めた約85年間は、ローマ帝国の最盛期といわれています。

・ネルウァ(96~98)
・トラヤヌス(98~117)
・ハドリアヌス(117~138)
・アントニヌス=ピウス(138~161)
・マルクス=アウレリウス=アントニヌス(161~180)

ローマ帝国の分裂

2世紀の終わりごろから、ローマ帝国では軍隊の反乱が相次いで起こります。ゲルマン人の侵入も盛んになり、広い領土は分裂のきざしを見せはじめました。

312年に、「コンスタンティヌス帝」が統一支配を回復させ、首都をローマからコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に移します。

しかし再び分裂が起こり、まとめようとした「テオドシウス帝」の政策も失敗に終わります。テオドシウスは二人の子どもに、ローマ帝国を東西に分けるよう言い残し、亡くなりました。

395年にはテオドシウスの遺言が実行され、東西二つのローマ帝国が誕生します。西ローマ帝国は、476年にゲルマン人によって滅ぼされてしまいました。

東ローマ帝国は、途中で「ビザンツ帝国」と名を変えて存続しましたが、かつての巨大帝国の面影はなく、1453年に隣の「オスマン帝国」に攻められて消滅してしまったのです。

ローマ帝国の初代皇帝と五皇帝

ローマ帝国が最盛期を迎え、その名が広く知らしめられた背景には、優れた皇帝たちの政治手腕がありました。ここでは初代皇帝と「五賢帝」と呼ばれた5人の皇帝に注目し、彼らが行った主な政策やエピソードを紹介します。

初代皇帝であるオクタヴィアヌス

共和制最後の大政治家ガイウス・ユリウス・カエサルの養子で、帝政ローマの初代皇帝です。

独裁的かつ好戦的だったカエサルが、暗殺という終わりを迎えたのを目の当たりにしたオクタヴィアヌスは、理性的かつ立憲的な政治を目指しました。

自身を権力者とみなされるのを嫌い、「プリンケプス(市民の第一人者)」と呼ばれるのを好んだとされています。紀元前27年~紀元14年の統治期間を通じ、パクス=ロマーナの礎を築いた人物です。

60歳を超えてから政治を行ったネルウァ

五賢帝の最初の皇帝として知られる人物です。恐怖政治を敷いた先代ドミティアヌス帝が暗殺されたことにより、元老院の承認のもと60代で皇帝の座に就きました。

高齢であったため、その在位期間は96年~98年のわずか2年間でした。しかしながらその短期間内に、先代皇帝が追放した人物の呼び戻し・没収した財産の返却・財政の立て直しなど、数々の優れた政治的手腕を振るった人物です。

属州出身者の最初の皇帝トラヤヌス

ネルウァの後継者として指名され、皇帝の座を継いだのが当時ゲルマニア総督だったトラヤヌスです。

属州出身者として初めての皇帝となったトラヤヌスは、対立しがちな元老院・軍隊の双方から支持を得られる希有な存在でした。

領土の拡大に乗り出したトラヤヌスは、しばしばローマ帝国との衝突を繰り返していたダキア(現在のルーマニア)の平定を皮切りに勢力を広げていきます。トラヤヌス帝統治下において、ローマ帝国はその領土を最大化したのです。

建築に注力したハドリアヌス

トラヤヌスの血縁で、同じく属州出身の皇帝です。117年、病に倒れたトラヤヌスの後継として皇帝に即位しました。

建築に注力した皇帝として知られ、中でもローマにあるドーム型の神殿「パンテオン」・帝国を囲む「ハドリアヌスの長城」は、現在でも人気の観光スポットとして多くの人が訪れています。

政策面では、積極的な領土の拡大よりも防衛を重視しました。債務免除をはじめとする行政改革に尽力し、民衆からの広い支持を得た皇帝です。

安定した内政を行ったアントニヌス=ピウス

ハドリアヌス帝治世下にて執政官・アジア総督と手腕を振るったのち、138年に皇帝の座を継いだのがアントニヌス=ピウスです。

ハドリアヌスと同じく内政に尽力した皇帝で、インフラ整備や貧民救済など多くの改革を推し進め、ローマ帝国の基盤をより一層盤石のものとしました。

なお、アントニウス=ピウスの「ピウス」は、「敬虔な」「慈悲深き」を意味する称号です。その称号が示すとおり、アントニウス=ピウスの治世は、ローマ帝国史上もっとも平和かつ安定した時代とされています。

五賢帝の最後マルクス=アウレリウス=アントニヌス

先代アントニヌス=ピウス帝の死を受け、161年にルキウス・ウェルスとの共同皇帝として即位した、五賢帝最後の皇帝です。著書「自省録」を記した哲学者でもあります。

この時代のローマ帝国は、疫病の蔓延・飢饉・天災など、数々の災難に見舞われています。加えて辺境維持のための遠征が長期化する中で国全体が疲弊し、国力にも徐々に陰りが見られるようになりました。

180年、マルクス=アウレリウス=アントニヌスが遠征先で病死すると、その死とともにローマ帝国の全盛期もまた終焉を迎えることになるのです。

ローマ帝国の文化や宗教

古代ローマの人々は、どのような環境で暮らしていたのでしょうか。ローマ帝国の文化や宗教について見ていきましょう。

多くの建築物を築く

ローマ帝国は、豪華で巨大な建築物を多く築いたことで知られています。ローマ市の中心部に建てられたコロッセオは、約5万人を収容できる規模でした。

コロッセオ(イタリア・ローマ)。紀元80年、ウェスパシアヌス帝とティトゥス帝によって造られた円形闘技場。力学的に安定する長径187.5m、短径156.5mの楕円形なので、鉄骨を用いていない火山灰による造りだが、幾多の地震にも崩壊しなかった。

美しいアーチ付きの神殿や凱旋門(がいせんもん)が立ち並ぶ都市には、属州からやってきたさまざまな人種の人々が賑やかに行き交ったはずです。

また、広い領土内をスムーズに移動するために立派な街道が造られ、生活に欠かせない水道も整備されました。ローマ人がテルマエを楽しめたのも、水道のおかげといえます。

キリスト教は迫害の対象

ローマ帝国は、基本的に宗教の自由を認めていましたが、キリスト教だけは迫害の対象となった時代がありました。

5代皇帝の「ネロ」は、64年7月にローマで発生した大火事の責任を、キリスト教徒に転嫁し、多くの教徒を火刑に処します。復活のための肉体が必要とされ、火葬を避けていたキリスト教徒にとって、火刑はもっとも残酷な仕打ちでした。

303年には、「ディオクレティアヌス帝」が、皇帝崇拝を強要するため、キリスト教の弾圧をさらに進めます。それでも教徒たちは信仰を守り続け、下層民を中心にますます広がっていきました。

313年にはコンスタンティヌス帝がキリスト教公認の勅令(ちょくれい)を出し、迫害を終わらせます。さらに392年、テオドシウス帝によって、キリスト教がローマ帝国の国教に定められました。

大帝国を築き上げたローマ帝国

紀元前に、イタリア半島の中心部に出現した小さな都市国家は、地中海沿岸地域を飲み込み、古代を代表する大帝国へと成長します。

領土の拡大に伴い、人やモノ、技術の交流が活発になり、文化の発展をもたらしました。コロッセオやテルマエに集まるローマ人を想像してみると、はるか昔の出来事も、もっと身近に感じられるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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