第一次世界大戦とは?
第一次世界大戦と聞いて、「よくわからない」「第二次世界大戦のほうは知っている」という人は多いのではないでしょうか。第一次世界大戦とはいったいどのような戦争だったのか、その詳細を確認していきましょう。
ヨーロッパが主戦場の世界戦争
第一次世界大戦は、1914年7月28日に勃発したヨーロッパが主戦場の世界戦争です。
「ドイツ帝国」「オーストリア=ハンガリー帝国」「ブルガリア」などによる「同盟国」と、「イギリス」「フランス」「ロシア」を中心とした「連合国(協商国)」との戦いで、両軍合わせて25カ国が参戦しました。
そんな第一次世界大戦の背景にあったのが、「世界的な不況」と「帝国主義」です。当時のヨーロッパは、自国の勢力を伸ばして植民地を広げたい各国の思惑が複雑に絡み合う状態にありました。
いったん戦争が始まると、各同盟国も次々に参戦を表明し、世界規模の戦争へと急速に発展していったのです。
日本も参戦していた
あまり知られてはいないものの、第一次世界大戦には日本も途中参戦しています。その背景にあったのは、1902年にイギリスと結んだ「日英同盟」です。
ロシアのアジア進出を不安視した日本は、利害関係が一致するイギリスと日英同盟を結びました。
この同盟では「どちらかが他の1国と開戦したとき、もう一方は中立の立場をとる」「どちらかが他の2カ国以上と開戦したとき、もう一方も参戦する」と定められていたため、イギリスの参戦によって日本にも参戦義務が生じたのです。
1914年8月23日にドイツへ宣戦布告すると、日本は直ちに中国国内のドイツ支配地域を攻撃・占領します。結果として日本は、日英同盟を口実にして中国での権益拡大を実現したのです。
第一次世界大戦勃発までの時代背景
戦争が起きる大きな原因の一つに、社会情勢をはじめとするその時代ならではの背景があります。第一次世界大戦についての理解を深める一つのヒントとして、当時の時代背景をひもといていきましょう。
不安定な国際情勢
当時、イギリス・フランス・ドイツなどの列強諸国は、それぞれの支配地域を巡る緊張状態にありました。
特に注目されていたのがバルカン半島です。当時のバルカン半島は、列強諸国の強い影響力を背景に、バルカン諸国による領土争いや激しい民族争いの真っ只中にありました。
そんなバルカン半島は、いつ何が起きてもおかしくない地域という意味で「ヨーロッパの火薬庫」とも呼ばれていました。
不安定な国際情勢の中で、各国がお互いに牽制し合いつつギリギリのバランスを取り合っている、それが当時のヨーロッパだったのです。
開戦のきっかけとなったサラエボ事件
1914年6月28日、一触即発の緊張状態だった国際情勢に、大きな一石が投じられました。
バルカン諸国の一つ、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを視察中だったオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア人男性によって暗殺される「サラエボ事件」が起きたのです。
メンツを潰された形となったオーストリア=ハンガリー帝国は、サラエボ政府の責任を追及して最後通牒を突き付けました。
しかし、納得いく答えは得られなかったため、オーストリア=ハンガリー帝国はとうとうセルビアに宣戦布告します。これをきっかけに、世界は第一次世界大戦へと突入していくことになるのです。
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第一次世界大戦の流れ
第一次世界大戦は、1918年11月11日、連合国側の勝利によって幕を下ろしました。そこに至るまでの過程について、主な戦いの流れを紹介します。
最初の戦い「マルヌの戦い」
最初の大きな戦いとなったのが、フランス北部のマルヌで行われた「マルヌの戦い」です。
開戦当時のドイツは、フランスとロシアによって挟み撃ちされることを強く警戒していました。そこで計画されたのが、「シュリーフェン・プラン」です。
「シュリーフェン・プラン」は短期決戦を目指した計画で、軍を分け、中立国ベルギーを進入路としてフランスを挟み撃ちにしたのち、ロシアとの交戦を予定していました。
しかし、計画は思うようにいかず、ドイツとフランスの戦いは塹壕戦に突入します。これにより戦いは長期化し、結果的にドイツの劣勢が決定付けられたとされています。
「西部戦線」と「東部戦線」
西部戦線におけるドイツとフランスの塹壕戦は、両軍ともに疲弊しながら実に数年にも及びました。
対する東部戦線では、「ドイツ・オーストリア=ハンガリー帝国」と「ロシア」の戦いが行われていました。この戦線では、オーストリア=ハンガリー帝国軍が劣勢の末敗退します。
勢いづいたロシアは1914年8月「タンネンベルクの戦い」でドイツと戦いましたが、大敗を喫しました。その後も両軍の戦いは続きますが、1917年にロシアで「ロシア革命」が起きると事態は急転します。
王朝が倒れたロシアは戦争を継続できず、同盟国側との間に「ブレスト・リトフスク条約」を結びました。こうしてロシアもまた、大戦から撤退していったのです。
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アメリカの参戦
1915年5月7日、ニューヨークからイギリスへ向かっていたイギリスの客船「ルシタニア号」が、ドイツの潜水艦による魚雷攻撃により沈没します。
ルシタニア号の犠牲者約1,200名の中には、アメリカ人128人が含まれていたといいます。これにより、もともと中立だったアメリカの国民感情は、一気に反ドイツへと傾きます。
1917年、ドイツからメキシコへ送られた電報(ツィンメルマン電報)の内容が、イギリスによってアメリカ側に伝えられました。メキシコに対し、アメリカとの交戦を促すその内容に激怒したアメリカは、1917年4月2日、ルシタニア号の遺恨もあってついに参戦を決断したのです
連合国側の勝利で終結
4年余りにわたって続けられた同盟国と連合国の戦いは、最終的にイギリス・ドイツ・日本を含む連合国側に軍配が上がることになりました。
第一次世界大戦が終結した要因として挙げられるのが、戦争が長期化したことによる各国の疲弊です。
特に、敗戦国である同盟国側の状況は深刻で、ドイツでは水兵の反乱をきっかけとしたドイツ革命が起きました。帝政が崩壊したドイツは、停戦協定を結ぶ道を選びます。
大戦への口火を切ったオーストリア=ハンガリー帝国はというと、戦況の悪化とともに内乱に悩まされ、事実上戦争の継続が不可能になりました。停戦を選択した後、帝国は崩壊・解体されています。
第一次世界大戦の影響
第一次世界大戦は、その後の世界に大きな影響を与えました。特に重要なポイントを確認していきましょう。
国際連盟が発足
1919年1月、アメリカ・フランス・イギリスを中心とした27カ国の連合国代表により、第一次世界大戦の終結に向けた講和会議(パリ講和会議)が開かれました。
戦後の世界秩序やドイツとの講話条件にまつわる話し合いが行われた結果、6月28日、連合国とドイツとの間で「ヴェルサイユ条約」が結ばれます。これにより、第一次世界大戦は正式に終結を迎えることになったのです。
なお、講和会議で主に取り上げられたのが、アメリカのウィルソン大統領が提唱した「14カ条の平和原則」です。14カ条のうちの一つに「国際平和機構の設立」があり、ここに「国際連盟」が発足することになったのです。
高まるドイツの不満
連合国側によって提示されたヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦にまつわる責任のほとんどを、ドイツ一国へと強制的に背負わせるものでした。このとき、ドイツに課せられた1,320億金マルクという賠償金は、ドイツの国家予算の実に数十年分に該当します。
その後、1929年に世界恐慌の波が世界中を襲うと、莫大な賠償金を背負ったドイツ経済は立ちゆかなくなり、国民のフラストレーションがナチスの台頭を招きます。
1939年、ヒトラー率いるドイツはポーランドに侵攻し、世界は再び世界大戦へと突入していくのです。
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多くの犠牲者を生んだ第一次世界大戦
第一次世界大戦では、戦闘機・潜水艦・戦車・毒ガスなど、それまでにはなかった新しい兵器が次々と投入されました。これにより民間人の犠牲者も多く出してしまう結果となりました。
命を失うことがなかった人も、心身に深い傷を負うことになったのです。多くの禍根や犠牲を生みながら、現代へと続く歴史の一部となった第一次世界大戦について、しっかりと理解を深めましょう。
もっと学びたい人のための参考図書
小学館版 学習まんが15「第一次世界大戦とロシア革命」
歴史教科書で有名な山川出版社の編集協力を得て誕生した「学習まんが世界の歴史」。第15巻では、19世紀末~20世紀初めごろまでのヨーロッパを中心に、第一次世界大戦をはさむドイツの野望、ロシアでの革命など激動の世界史を追っていきます。各国の帝国主義がどのように衝突し、どのように対戦へとつながるのか、リアルなドラマとして読むことができます。
集英社版・学習漫画 世界の歴史16「第一次世界大戦 戦火におおわれるヨーロッパ」
政治家や学者、冒険家に芸術家など傑出した人物たちの活躍により形成されてきた歴史を人間ドラマを通して紹介する漫画「人物世界史」。この第16巻では、オスマン帝国が衰え、かわって台頭する欧州強国の対立構造を浮き彫りにしていきます。第一次世界大戦のころの国際情勢がドラマチックに描かれています。
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構成・文/HugKum編集部