ヴェルサイユ条約とは
「ヴェルサイユ条約」の名前は覚えていても、詳しい内容を忘れてしまった人は多いでしょう。言葉の意味や、条約締結の背景を解説します。
第一次世界大戦の講和条約
ヴェルサイユ条約は、第一次世界大戦終結時に、ドイツと連合国との間で結ばれた講和条約です。フランスのヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で調印されたことから、ヴェルサイユ条約と呼ばれています。
第一次世界大戦は、1914~1918年の5年間にわたり、ドイツを中心とする同盟国と、イギリス・フランス・ロシアなどによる連合国とが戦った戦争です。アメリカや日本も、連合国側で参戦しています。
戦争は、連合国側の勝利に終わり、1919年1月からパリで戦勝国による講和会議が開催されます。ヴェルサイユ条約は、講和会議の結果としてドイツに対する処置を盛り込んだもので、1919年6月28日に調印、1920年1月10日に発効しました。
締結の背景や目的
ヴェルサイユ条約には、パリ講和会議を主導したアメリカ・イギリス・フランスの3カ国の思惑が反映されています。
アメリカのウィルソン大統領は「十四カ条の平和原則」を提唱して、休戦を働きかけた功労者です。パリ講和会議でも、アメリカは国際協調を主張し、敗戦国に対する過酷な要求には反対の姿勢を示しました。
一方で、フランスやイギリスは、ドイツに大きな負担を課すべきと主張します。
フランスは、1871年にドイツ(プロシア)との戦争「普仏戦争(ふふつせんそう)」に負け、領土や賠償金を取られた過去がありました。そのため、ヴェルサイユ条約を報復のチャンスととらえたのです。
イギリスも、基本的にはフランスの考えに同調しており、最終的にドイツへの厳しい処置が決まりました。
ヴェルサイユ条約の内容
ヴェルサイユ条約の内容は、大きく4つに分けられます。それぞれについて、具体的に見ていきましょう。
国際連盟の発足
条約の冒頭では、「国際連盟」の設立が規定されています。国際連盟は、ウィルソン大統領が「十四カ条の平和原則」の中で提唱した、世界初の国際的な平和機構です。
加盟国が侵略を受けた場合は、他の加盟国全体で援助し、侵略を防ぐための組織と位置付けられています。
国際連盟は、ヴェルサイユ条約の発効と同時に発足し、日本はイギリス・フランス・イタリアとともに常任理事国として加盟しています。
ただし、ドイツやロシアは加盟を認められず、提案したアメリカも、議会の反対によって加盟を見送りました。
軍備の制限
ヴェルサイユ条約で、ドイツは軍備を著しく制限されています。徴兵制度が廃止となり、軍の人数や所有する兵器の数も規制されました。
陸軍は10万人まで、海軍は1万6500人までと決められたほか、潜水艦の所有や製造が禁止されます。航空機も100機しか所有できず、新たに製造することはできなくなりました。
また、「ラインラント」と呼ばれるライン川流域の地帯は、フランスなどの連合国軍が西岸を15年間占領し、東岸は「非武装地帯」とされます。
領土の処分
ヴェルサイユ条約で、ドイツが受けた、領土に関する主な処分は以下の通りです。
・普仏戦争で取得したアルザス・ロレーヌ地方をフランスに返還
・ザール地方を国際連盟が管理する
・ポーランド回廊と呼ばれるバルト海に通じる地域をポーランドに割譲
・ベルギーとデンマークにそれぞれ隣接地域を割譲
・すべての海外植民地と権益を放棄
アルザス・ロレーヌ地方やザール地方は、天然資源が豊富で、ドイツの経済を支えていました。また、ドイツは、海外に多くの植民地を持っていましたが、ヴェルサイユ条約によってすべて取り上げられます。
ドイツは、人口の約10%と国土の約15%を奪われ、主要な収入源も失う結果となりました。
厳しい賠償金
ヴェルサイユ条約では、第一次世界大戦の責任は「すべてドイツにある」としています。そのため、ドイツには賠償金も課されることになりました。
締結時には、具体的な金額は決まっていませんでしたが、1921年に総額「1320億マルク」に決定します。現在の日本円で約200兆円に相当する、とてつもない金額でした。
戦争で国土が荒廃していたうえに、多くの領土を失ったドイツに払えるはずがなく、ドイツ経済は苦境に陥ります。
ヴェルサイユ条約が、世界へ与えた影響
ヴェルサイユ条約は、その後の世界情勢にも大きな影響を及ぼします。条約締結後の各国の動きを見ていきましょう。
日本や各国への影響
第一次世界大戦以前、ドイツは中国の山東(さんとう)省一帯を植民地化しており、鉄道などの権益を持っていました。しかし、戦争が始まると、山東省の都市「青島(チンタオ)」を日本軍に攻撃され、支配権を奪われます。
日本はパリ講和会議で、山東省を引き続き支配下に置くことを主張し、認められました。このとき、アメリカは植民地を元の国に返すべきと主張し、日本と対立しています。
また、中国では大規模な「反日運動」が起こり、ヴェルサイユ条約を否認しています。
一方、ヨーロッパでは、1926年にドイツが国際連盟に加入し、平和を取り戻しつつありました。しかし、1929年の「世界恐慌」によって状況が変わります。
ヴェルサイユ条約では、自国に都合の良い体制を貫いていたイギリスやフランスも、新たな体制への変化を迫られることになるのです。
第二次世界大戦のきっかけに
条約の内容が厳し過ぎたために、ドイツ国民の間では怨嗟(えんさ)の感情が広がります。特に、賠償金の支払いが国民を苦しめました。
見かねたアメリカが、ドイツが賠償金を無理なく払える方法を提案したほどです。そのような状況で台頭したのが、ヒトラーが率いる「ナチス」です。
ヒトラーは「反ヴェルサイユ条約」を掲げてドイツ国民の心をつかみ、政権を手中にします。1933年には国際連盟を脱退し、領土の奪還と、植民地に代わる新たな領土の獲得に乗り出しました。
1939年に、ドイツがポーランドへ侵攻すると、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まるのです。
多くの問題点があったヴェルサイユ条約
ヴェルサイユ条約が、ドイツに厳しい内容となった理由は、フランスやイギリスによる報復の意図が含まれていたことにあります。中立な立場から「世界平和」を提案したアメリカと違い、ヨーロッパ各国はそれぞれ複雑な事情を抱えており、単純にドイツを許すわけにはいかなかったのでしょう。
客観的に見ても、多くの問題点があったヴェルサイユ条約は、長続きせず新しい争いを生みます。ヴェルサイユ条約への理解を深めることで、戦争はなぜ起こるのか、平和な世を続けるにはどうしたらよいのかを、親子で考えるきっかけとしましょう。
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構成・文/HugKum編集部