【第5回】現在ロンドンで3人の子ども(9歳,9歳,6歳)を育てるライターの浅見実花さん。東京とロンドンの異なる育児環境で子育ての「なぜ?」にぶつかってきた彼女にとって、大切なことは日々のふとした瞬間にあるのだそうです。まずはちょっと立ち止まって、自分なりに考えること。心の声に耳を澄ましてあげること。そういう「ちょっと」をやめないこと。この連載では、そうしてすくい取られたロンドンでの気づきや発見、日本とはまた別の視点やアプローチについて、浅見さんがざっくばらんに&真心を込めて綴っていきます。
第5回は「ぼくらはどうして外国語を学ぶの?」。みなさんはお子さんに「どうして英語を習うの?」と聞かれたりしませんか?
目次
ぼくらはどうして外国語を学ぶの?
毎週土曜の午後になると、双子と私はロンドンの日本語教室へ向かいます。
9歳の双子はふだん現地校に通っているので、日本語をまともに読み書きする機会がありません。残念ながら本さえ読まない。母国語はもはや英語で、日本語は外国人がカタコトでしゃべるようなあやしい発音。身体はどんどん大きくなるのに、言葉のほうはつたなくて。
このまま英国人になるならいいのですが、彼らは日本へ戻ります。親が日本語を教えることができない以上、日本語教室に通うのもやむをえないと思うのですが、これがなかなか負担なのです。とりわけ漢字の宿題が。毎週土曜に習う漢字10個を、ふだんの現地校の宿題にくわえて、自分で習得してこなければならない。しかも漢字は年々むずかしく、量もどんどん増えていきます。
日本語教室の宿題がつらくて
これまでなんとか教室に食らいついていた双子ですが、とうとうある日おしゃべりな片割れが私のところに直訴に打って出てきました。
「ママ、どうしてぼくたちあそこへ行かなくちゃいけないの? イギリスの学校に行ってるから、それでいいよね?」
話を聞くと、やはり漢字の宿題が大変でつらくて、ということらしい。
(……まあ、そうくるわなあ)
内心、私は同情を感じつつ、
「ああ、あれは大変だよね。よくやっていると思うよ、ほんとうに」 こちらの主張も聞いてほしいと話を前に進めます。
「でも、それでもママはあきらめないで行ってほしいと思ってる。私は日本語を教えられないし、きみもほとんど日本語を使わないわけだから。日本に帰っても毎日つまらなくなっちゃうよ」
「でも…………だって…………」
その長い、長い愚痴のようなものを聞くうちに、私はああと思いました。まあ無理もないことですが、いまの時点の彼らにとっては、外国語を習得する必要性がほぼゼロなわけです。外国語が使えなくてもなんら影響がない。外国語を習得することでどんなメリットがあるのか、自分はなぜ外国語を勉強しなくちゃいけないのか、ほとんど想像することがない。毎週末にどっさり宿題を与えられ、なんとかそれをこなしていく。そういう地道で忍耐をともなう努力の先に、いったいどんな「いいこと」が待っているんだろう? それが見えない作業というのは、相当しんどい作業だなあ、と。
学ぶことの楽しさはどこへ?
私たちが日本語で「勉強する」と言うとき、それは往々にして「試験でいい点をとるために、試験対策をする」という意味を帯びてきます。得点や偏差値ってすごく分かりやすいので、われわれの意識もついその高い・低いに向いてしまう———80点と60点だったら、そりゃ80点のほうが見栄えがいいですよね、そこに至るまでがどうというより。
そういうタイプの「勉強」はいわば戦術のようなものだから、プロセス上の喜びや満足感はどうしたって二の次になってきます。煎じ詰めれば、いい大学に受かればいい。勉強が好きでたまらない人はいいのですが、まったくそうではない人は、やっぱりどこか歯を食いしばって、耐え抜いて……。
もちろん一定の目標をセットして、そこに向かって努力をし、結果はどうあれその努力をたたえるという姿勢があれば、それも意義ある経験になるのでしょう。勝負に挑んで、その結果をみずから受け入れるというような。ただそこでもし失敗したときに、失敗の体験をどうポジティブに転換し、乗り越えていくのかという具体的な支援のほうこそ、もっと語られていいんじゃないかと思いますが———学歴がそれほど効かなくなっているにもかかわらず、いまだにコンプレックスが根づよいという現実が、そういうサポートの欠落を教えてくれる気がする。
いっぽう、狭い意味での勉強をいったん脇に置いてみて、もっと広い「学び」について考えると、そこにはほんらい素朴でしぜんな喜びがあるのに気づかされます。ここで言う「学び」の対象はなんでもよくて———たとえば、最後まで読めなかった本が読めるようになるとか、カレーがおいしく作れるようになるとか、あるいは好きな人に自分から話しかけられるようになるとか———あらゆることが学びにつながる。いわゆる「勉強」は結果(合否やスコア)がものを言うのにたいし、広義の「学び」はそのプロセスや総合的な成長度合いに意味合いが見出されます。
つまり学びとは、これまで分からなかったものが分かるようになっていく、できなかったことができるようになっていく、そういうどこまでもシンプルで体感的、主観的なプロセスなんじゃないかと。そしてその核にあるのは、むしろしぜんな高揚感で。その気持ちがあればこそ、つぎの学びに進んでいける。私たちがさまざまなやりかたで世界を探求していくときの原動力になっていく。
ラブ・オブ・ラーニング
よくこっちで「LOVE OF LEARNING(ラブ・オブ・ラーニング)」と常套句的に言われますが———これをちゃんと教育や社会の中で育んでいこうよと———あえて日本語にするなら、学びを愛する心、とかになるのでしょうか。結局そういう心(マインド)を失わない人というのは、より幸せ度の濃い「学び」人生を送れるのではないのかと最近ますます実感します。
それで双子のケースに戻るのですが、そういう学びに関する根源的な喜びが、土曜教室の負担感によって縮み上がっているとしたら、私としては正直言って本末転倒、やっかいな事態です。
しかしいっぽう、「それじゃ、もう楽しいことしかやらないよ!」(日本語なんかやめればいい!)というのも、近々帰国して地域社会に根づくという現実とあまりにも乖離している。だから学びに関する喜びは心の中で大切にケアしながら———ちょうど大事なバラに水をやり、バオバブを摘むように———いま直面している現実に対応していかざるをえないですよね。
家族会議「日本語と英語を使えると、どんないいことがある?」
じゃあ、いったいどうすればいいんだろう。話をもとに戻しつつ、私は考えました。ここはまず「日本語と英語を使えると、どんないいことがあるのか」について、もうすこし想像を膨らませてもいいんじゃないか、と。私たち大人にとっての当たり前は、子どもにとっての当たり前と違うかもしれないので。
それから私は、わが家のビジネス実践家で、思い立ったが吉日な夫(※日本人です)のところへ、話を持っていきました。「日本語・英語が使えるとどんなよいことがあるのか、このことを子どもたちにすこしでも理解してもらうのに、なにかアイディアはありますか」と。
すると彼はキーボードを打つ手を止めて、ぎょろりとした目でこちらを見、
「じゃあ、明日の朝食後、全員で話しましょう。15分とか。おれ、進行役やるので」
言うなりまたパソコンの画面へと戻っていきました。
というわけで、翌朝です。家族が集まる食卓で、話し合いが始まりました。テーマは、日本語と英語を使えると、どんないいことがあるのか。 大人も子どもも順番に思ったことを遠慮なく言い合います。
「いろいろな人と話せる」
「いろんな友達ができる」
「住む場所が選べる」
「通訳できる」
「いろんなジョブ(仕事)ができる」
「いろんな歌が聴ける」
「観られる映画がたくさん」
「ほかの国に行っても困らない」
「戦争が起きたとき逃げられる」
……
10分が経過して、ひととおりアイディアも出そろうと、進行役である夫がまとめに入ります。その辺にあったチラシの裏に、とりあえず導き出された結論が文字になって並んでいく。
あくまで一例なのですが、ここでは以下3つの「いいこと」が見つかりました。
日本語と英語を使えると……
1)チャンスがひろがる(仕事、趣味、住める場所などの選択肢が広がる)
2)人生がより楽しめる(友だち、情報コンテンツなどに幅や深さが出る)
3)リスクに強くなる(失業、戦争、災害などの対応に強くなる)
いちおう話し合いは終了しました。結果も出ました。進行役がまるでビジネスのプレゼンかなにかのようにペラペラと結果について解説し、われわれ一同ふたたびチラシの裏をしばしのあいだ眺めます。
「ふーん、そっかあ」
「へえ〜〜〜」
はたして子どもの腹落ち度合いはいかがなものか。そしてどれだけ長持ちするのか。効果のほどは不明ですが、私の中で1つあきらかになったのは、なるたけ平易な言葉を使っていれば、子どももちゃんと話し合いに参加できるということでした。そして彼らにしても、みずからしっかり関わっている、参加している感覚を持てるのは、悪くないと思いました。
学びの種はいくらでも、自由に蒔ける
まあ、ひとまず結果はどうあれ。母親の私はすっかりこれに味をしめました。これまで子育てに関わることのほぼなかった父親です。子どもたちが学校に上がり、知的レベルも上がったいまこそ、彼の時代がやってきたんじゃなかろうか。彼のビジネスへの情熱のほんの一部を、子どもたちにも注ぎ込んでもらいたい。週に1度でも、月に1度でも、まともに話す機会をぜひ持ってほしい。きっと彼なら私より楽しく話せる 世の中の仕組み、経済の仕組みがたくさんあるはずだから……。
それじゃ、私は子どもとどんな話をしようかな。私は思いを巡らせはじめました。
これまで分からなかったものが分かるようになっていく。知識が増える。思考が広がる。想像の枠が、世界の円が拡がっていく。当人にどこまで刺さるかは別にせよ、学びの種というのはいくらでも、自由に蒔けるのかもしれませんね。
浅見実花(あさみ みか)
大学卒業後、広告代理店に勤務。のちロンドンへ渡る。マーケティング&ファイナンス修士。著書に『子どもはイギリスで育てたい!7つの理由』(祥伝社)。現在、在英9年目。3児の母(9歳、9歳、6歳)。