【第4回】現在ロンドンで3人の子ども(9歳,9歳,6歳)を育てるライターの浅見実花さん。東京とロンドンの異なる育児環境で子育ての「なぜ?」にぶつかってきた彼女にとって、大切なことは日々のふとした瞬間にあるのだそうです。まずはちょっと立ち止まって、自分なりに考えること。心の声に耳を澄ましてあげること。そういう「ちょっと」をやめないこと。この連載では、そうしてすくい取られたロンドンでの気づきや発見、日本とはまた別の視点やアプローチについて、浅見さんがざっくばらんに&真心を込めて綴っていきます。
第4回は「子育てでイラッときたら、心の中でなんて言う?」がテーマ。浅見さんが観察してきたロンドナーの「見えない意識」を言葉にします。
目次
「ママのお腹に入る前、ぼくは・・・」
下の息子(6歳)とおしゃべりしていたときのこと。私たちは彼が生まれる前のできごとについて話していました。
母親「あのときはまだ生まれてなかったね」
息子「じゃあ、ママのお腹の中にいた?」
母親「ううん、もっとずっと前」
息子「そっか〜。じゃあ、ぼくスペース(宇宙)にいたんだね」
母親「スペース?」
息子「だって〜、ママのお腹にいる前はスペース・ダスト(宇宙の塵)だったでしょうに〜」
……どこから聞いてきたんだろう? なにかの絵本か友だちか、あるいは純な想像か。スピリチュアルでも、ニュー・エイジでもありません。けれども私はこの嘘ばなしが気に入ってしまいました。
「ママのお腹の中に入る前、ぼくは宇宙の塵だった」
どう聞いてもおかしいんですけど、却ってこの宇宙人っぽさがいいのかもしれないなあ、と。何がいいっていうのはたぶん……。
グチャグチャの部屋に怒る母は、育児の定め?
数年前、私の家にはこんな光景が広がっていました。
- 1)トイレットペーパーが何個もほどかれ、家中に展開している。
- 2)おもちゃの電車の長いレールが牛乳にまみれている。
- 3)壁や床が油性ペンにやられている。
すべて息子たちのしわざです。
いったいどうしてこんな事態になるんだろう? 私には理解できませんでした。娘のほうはけっしてこんなことをしないのに。電車のレールに牛乳をふりかける、そのこころは? 床に油性マジックって、どれだけ気が利いてるの。いまでも当時を思い出すと、心の叫びが聞こえてきます。
グチャグチャの部屋で、牛乳にまみれる幼児と怒る母。しだいに私は、怒ってばかりの自分にもほとほと嫌気がさしていき……。これってよくある育児の悪循環ですよね。
幼児の困った行動に、ロンドンの大人はなぜ冷静でいられるの?
そんな中。ロンドンでまわりの大人を観察していたら、あることに気がつきました。多くの親が幼児の起こす問題にそこまでイライラしていない。あまり心を乱されない。まれに怒りをぶちまけている親もいますが、大半はわりと平気にしている。平熱が低いという印象です。これってどういうことだろう、と。
確かにこの国には人前で感情を出さないという美徳がありますが、こうして現地で親や教育者らと関わったり、政府の育児手引きに目を通したりするうちに、彼らのあいだに暗黙の前提があることに気づきました。日常的にあえて口に出されることはないけれど、人びとの意識に埋まっていること。少なくとも私の意識には深く食い込んでいなかったことが。
ひとことで言うなら、「この子は『私』ではない」というあまりにも単純な前提です。
たとえわが子であろうと、だれであろうと、私は私、あなたはあなた。だから相手に理解してほしいことは、こちらが言葉に出してハッキリと伝えなければ分かるはずもないよね、という。
そこのところがまずあって。ある意味、自分と子どもが「別の存在」として最初から切り離されているような。
わが子は自分の付属ではない
自分と子どもは別の存在。言われてみれば当然のことですが、じっさい胸に手を当て思い返すと、やっぱり私にとってはそうではなかった。
正直言って、子どもがまるで自分に属しているかのような、言葉にならないモヤモヤした感覚が、心のどこかに取り残されていたんじゃないかと思います。だからこそ、思い通りにならない子どもを前にして、つい苛立ちを感じていた。やたらと感情的になっていた。
「あなたは私に従って当然なのに、どうして従わないのか(怒)」と。
振り返ってみると、イライラの元凶にこのマインドがあったのかもしれません。なんとなくではあるけれど、確かに漂う見えない意識。まるでわが子が自分の付属であるかのような。あたかも思い通りに動かせるかのような。それが私の感情を揺さぶっていた。牛乳まみれのレールを前にして大声を張り上げさせた……。
だとしたら——私は思いました——いっそのこと切り離したらどうなんだろう? 放置じゃないです。そうではなくて、その先ありきで自分とこの子をポジティブに切り離す。お互いそれぞれ別の生命なのだと認めてみたら、子どもの動きがこちらの期待と違っていても、それほど取り乱す必要はないんじゃないかって。
どうしようもない子育て環境はやはりある
こんなふうに観察結果を言葉にすると、自分の中で反論も聞こえてきます。
「いや、西欧と日本はちがうから。個人主義的な考えかたは日本人には当てはまらないよ」
うん、それは確かにあるかもしれない。そもそも個人主義みたいな考えかたは、根っこの部分でキリスト教とその成り立ちに関わっているのだから、そのことはわからなくもないよね……。
でも、じっさい育児の当事者になってみると、私たちはこれでもかと思い知らされるわけです。いまの子育て環境はやっぱり「個」がベースなんだ、と。だっていまこの瞬間、われわれの幼な子たちを見守ってくれる大家族、困ったときに助けてくれる村びとや町人たちが、いったいどこにいるんだろう。現実的には育児はあくまで個人の責任(母親だけ、父親だけ、あるいは両親で、どうにか)。物理的にはもちろんのこと、精神的にもタフな「個」にならなきゃやっていけないリアルな子育て環境があって。
だからもし、日本ならではの思想とか、東洋由来の社会の仕組みがあるならば、それについては長い時間の尺度の中で期待しつつ、同時にいち親として「この子をどうすればいいの?」っていう差し迫った状況があるわけですよね。
私は私、あなたはあなた、そこから始まる物語
先の「ポジティブな切り離し」は、そんな「個」(=孤)な環境で奮闘する私たちの、1つの気づきになるのかもって思いました。
「私は私、あなたはあなた」、それはたとえわが子であっても同じこと……。
たとえばこんなイメージです。何か起きたら心の中でカッコの台詞を唱えてみる。それから言葉を発していく。
(私とこの子は別の存在——思い通りにはならないことはわかってる——それでも私は教えよう——)
「ハリー、花壇に入ってはいけないの。歩道を歩きなさい」
「エミリ、だれかに物をもらったときには、なんて言うの?」
自分は相手に何を理解してほしいのか。社会のルールは、家庭の約束はどういうものか、ハッキリと言葉によって伝えていく。相手に働きかけていく。忘れられたら、もう一度。何度でも思い出させる。リマインド、リマインド、リマインド!
結局、生身の子どもと付き合うのって、そういう地道で汗臭いやりとりの繰り返しなのかもしれません。
個人的には、冒頭の嘘ばなし「ママのお腹に入る前、ぼくは宇宙の塵だった」に思わず反応してしまいましたが。
たとえばこんな感じです。
電車のレールに牛乳をふりかける息子の姿を発見し、
(ああ、きみにはわからないかもしれないな———だって私のところに来る前は、宇宙にいたって言うんだからね———それでも私は教えるよ。きみにほら、何度でも———)
「ジェイ、電車のレールに牛乳をふりかけてはいけません。片付けるのを手伝いなさい」
……なんだかなあ。
みなさんは、心の中でなんと言っていたいですか?
私とこの子をポジティブに切り離す。口で言うのは簡単だけど。
たぶんそこから「私」と「あなた」の物語が始まるような気がするな。カッコの中だと(———それでも私は教えよう)の部分です。そうしてみずからの自覚と意志で、相手と関わり合っていく。あなたという人間とその他世界に働きかける。概してそれが愛ってことになるのかもしれないけど。
「私は私、あなたはあなた、そこからお互い愛そうね」って。
(おわり)
浅見実花(あさみ みか)
大学卒業後、広告代理店に勤務。のちロンドンへ渡る。マーケティング&ファイナンス修士。著書に『子どもはイギリスで育てたい!7つの理由』(祥伝社)。現在、在英9年目。3児の母(9歳、9歳、6歳)。