酸っぱくないのに「梅ぼ志飴(うめぼしあめ)」というのはなぜ?【榮太樓のお菓子歳時記 】

和菓子には、季節や行事に合わせて四季を楽しむ日本人の心が表されています。「白い黄金」と称された貴重な砂糖をつかった和菓子は、まず、富裕層向けに京都で発達し、将軍のお膝元である江戸に広まりました。

文政元年に、江戸・九段に出府を果たした榮太樓總本鋪。およそ160年前に、現在の日本橋の地に店を構えて営業を続け、創業200年を迎えました。和菓子を庶民に届け続けてきた榮太樓總本鋪がお届けする「和菓子歳時記」。ふだんの暮らしで親しんできた和菓子にまつわるエピソードをお楽しみください。

ルーツは南蛮渡来の「有平糖」。高価な砂糖の味わいを榮太樓が庶民に広めました

1549年、スペイン人の宣教師であるフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して始まった南蛮貿易でもたらされたのが「有平糖(あるへいとう)」。それまで、飴と言えば、米や芋を材料にした「和飴」でしたが、「有平糖」は、砂糖を原料とする飴。江戸庶民にとって、砂糖は手の届かない高価なものでしたが、榮太樓總本鋪の創意工夫で、飴として庶民に親しまれました。

歯につかず、カリカリと軽やかにかみ砕けるキレのよさ、カラメルがもたらした複雑な風味は独特のコクがあります。いくつ舐めても口の中が荒れないのは砂糖の純度が高い証拠です。

ザラメ砂糖とサツマイモから作られた水飴を、高熱の直火で加熱して煮詰める江戸からの製法を守り続けています。

口にやさしい、三角の形

煮詰まった飴が適度な温度と硬さになったときを見計らって棒状に延ばして、固まりきらない飴をはさみで一粒ずつ小さく切り、さらにその切り口を3本の指でつまんで成形してつくります。指でつまんで角を丸くするのは、誤って切り口で口の中を切らないように、という配慮。こうして生まれた口にやさしい三角の形は今も守られています。

なんで酸っぱくないのに「梅ぼ志飴」と言うの?

梅ぼ志飴の発売は、1857年(安政4年)と言われています。なぜ甘い飴を「梅ぼ志飴」と称したのでしょう?

指でつまむことからうまれた形には皺がよっており、大きさも、梅干しに似ていたことからこう呼ばれることに。甘いものをあえて、酸っぱいものにたとえたのは、言葉遊びや洒落が好きだった江戸っ子らしい発想です。赤い色は、その昔は本紅を使っていましたが、本紅が高価であったこともあり、紅を加えない黄色の飴と組み合わせるようになり、2色で「梅ぼ志飴」としました。赤い方は、現在はムラサキイモの天然着色料を使用しています。

上方の舞妓たちに愛されたヒミツとは?

明治・大正の頃、上方の芸妓・舞妓たちに東京土産として絶大な人気を誇っていたのが「梅ぼ志飴」。なんでも、唇に塗ってから口紅をつけると唇が荒れず、紅に照りがでて乗りが良いという評判が広がり、まず、飴をなめてから紅を塗るというのが流行ったとか。東京に行った人が梅ぼ志飴を買って帰り、馴染みの京都の芸者に贈っていたのでしょう。

黒飴・抹茶飴・紅茶飴。平成に生まれた、のど飴・果汁飴

梅ぼ志飴(紅、黄色)、黒飴、抹茶飴、紅茶飴、のど飴 (左から)

 

「梅ぼ志飴」に続いて、手に入りやすい黒糖を使って明治時代初頭に作られたのが「黒飴」です。沖縄県西表島、小浜島で収穫、製糖された黒糖を使って作り続けています。

以来、有平糖の製法技術を元に、昭和27年に誕生した抹茶飴、ミルクティー風味の紅茶飴と続き、平成に入ってからは、50年ぶりの新商品「のど飴」が加わりました。和種ハッカと、山田養蜂場の国産百花はちみつの優しい風味が溶け合うまろやかな甘さが特徴です。

そして平成25年には、無香料・無着色のフルーツキャンディ「果汁飴」が榮太樓飴シリーズに加わりました。
特殊な製法で果実を加工して使用することで、着色料や香料を使うこと無く果物が持つ本来の甘さや香り、鮮やかな色をそのまま飴に仕上げています。

創業200周年を記念した「限定デザイン記念缶 榮太樓飴セット」が発売中!

榮太樓は、2018年4月に創業200年を迎えました。それを記念して、浮世絵師・歌川広重の「東海道五十三次」の「日本橋朝之景」と、イラストレーターNAGAさんが近未来の日本橋を描いた二つのデザインパッケージを含んだポケット缶のセットが、限定発売中です!

ポケット缶なので、飴も舐めやすい小粒となっています。

梅ぼ志飴、抹茶飴、バニラミルク飴のポケット缶の3缶セット。1296円(税込)。他に、5缶、11缶セットがあり、記念缶は2缶ずつ入っている。

 

お子様から幅広い方々に飴を親しんで頂けるために、添加物に頼らない最上質の飴づくりをこれからも続けていきます。

 

監修:榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)の歴史は、代々菓子業を営んできた細田家の子孫徳兵衛が文政元年に江戸出府を果たしたことに始まります。最初は九段で「井筒屋」の屋号を掲げ菓子の製造販売をしておりました。が、やがて代が替わり、徳兵衛のひ孫に当たる栄太郎(のちに細田安兵衛を継承)が安政四年に現在の本店の地である日本橋に店舗を構えました。数年後、自身の幼名にちなみ、屋号を「榮太樓」と改号。アイデアマンであった栄太郎は代表菓子である金鍔の製造販売に加え、甘名納糖、梅ぼ志飴、玉だれなど今に続く菓子を創製し、今日の基盤を築きました。

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構成/HugKum編集部

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