和菓子には、季節や行事に合わせて四季を楽しむ日本人の心が表されています。「白い黄金」と称された貴重な砂糖をつかった和菓子は、まず、富裕層向けに京都で発達し、将軍のお膝元である江戸に広まりました。
文政元年に、江戸・九段に出府を果たした榮太樓總本鋪。およそ160年前に、現在の日本橋の地に店を構えて営業を続け、創業200年を迎えました。和菓子を庶民に届け続けてきた榮太樓總本舗がお届けする「和菓子歳時記」。ふだんの暮らしで親しんできた和菓子にまつわるエピソードをお楽しみください。
目次
刀の鍔に形が似ているから「金鍔(きんつば)」
「金鍔」は江戸時代に江戸の町に生まれたお菓子です。刀の鍔(つば)に形が似ていることから、こう呼ばれるようになりました。それ故、丸くて平たい形のものが本来の姿。
様々な江戸川柳にも登場するほどの、まさに江戸を代表する味わい。小豆の潰し餡を薄い小麦の皮で包み、胡麻油で焼き上げます。香ばしく焼けた黄金色の小麦と小豆餡の相性は時代を超えて食べ続けられるおいしさです。江戸の頃、初代榮太樓は日本橋魚河岸で金鍔を焼き売りしました。「孝行者の栄太郎」で通っていた初代榮太樓の金鍔は、大きくて味がよくたいへん評判になりました。榮太樓はこの昔ながらの金鍔を今も大切にこしらえております。
「金鍔」が侍の子供にも人気があったという古い歌も残っています。
“さすが武士の子金鍔を食いたがり”
もう一つ、吉原の女衆が奉公期間が延びてもいいから食べたいと言うものも。それだけおいしいのは、金鍔とさつま芋という歌です。
“年季増しても食べたいものは 土手の金鍔 さつま芋”
上方の「銀鍔」が、江戸に伝わり「金鍔」に
江戸庶民のお菓子として、大福餅などと共に現れたのは享保年間(1716~1735)頃といわれています。それ以前、貞享年間(1684~1687)に、うるち米の皮であずき餡を包んで焼いたものが京都に現れ、「銀鍔」(うるち米の皮だから焼き色が白かった)と称して売られていました。
これが江戸に渡り、皮を小麦粉に変えたために黄金色の焼き色がつき、米粉の銀鍔と比べ、金色に見えたために「金鍔」となったそうです。また、上方の貨幣制度が、銀本位制だったのに対して江戸は金本位制ということから金鍔という名がつけられたという説もあります。
栄太樓の「金鍔」は、江戸時代から変わらない製法
榮太樓の「きんつば」は丸くて平たい円盤状。小麦粉を煉った種を使い、それで出来るだけ薄く餡を包み、焼くときには胡麻油を使用しています。潰し餡を小麦粉で練った種で、薄く餡を包むという職人技術も江戸以来変わらぬ製法です。
四角い「きんつば」もありますが、こちらは寒天を使って小豆を固め、その塊を小麦粉水溶液に浸して焼く製法です。四角い「きんつば」は、その形から「六方焼き」と呼ばれることも。
創意工夫の餡作りの季節限定品。これからの時期は「ずんだ金鍔」が店頭に並びます
春には、小豆餡に桜の塩漬けがアクセントになった「桜金鍔」。
初夏には、さっぱりとした酸味がうれしい「甘夏金鍔」。
夏には、すりつぶした枝豆たっぷりの「ずんだ金鍔」。
冬には、甘い安納芋入りの「芋金鍔」。
これからの時期は「ずんだ金鍔」が店頭に並びます。定番の「金鍔」とともに味わってください。
監修:榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)の歴史は、代々菓子業を営んできた細田家の子孫徳兵衛が文政元年に江戸出府を果たしたことに始まります。最初は九段で「井筒屋」の屋号を掲げ菓子の製造販売をしておりました。が、やがて代が替わり、徳兵衛のひ孫に当たる栄太郎(のちに細田安兵衛を継承)が安政四年に現在の本店の地である日本橋に店舗を構えました。数年後、自身の幼名にちなみ、屋号を「榮太樓」と改号。アイデアマンであった栄太郎は代表菓子である金鍔の製造販売に加え、甘名納糖、梅ぼ志飴、玉だれなど今に続く菓子を創製し、今日の基盤を築きました。
構成/HugKum編集部 イラスト/小春あや