足利義政ってどんな人? 応仁の乱など子どもにも分かりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

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足利義政(あしかがよしまさ)は室町幕府の将軍の1人です。政治に無関心だった一方で、引退後は文化の発展に貢献したことで知られています。将軍の跡継ぎ問題に端を発した応仁(おうにん)の乱は、世の中を変えるきっかけにもなりました。足利義政の人物像を分かりやすく紹介します。

足利義政とは?

足利義政は将軍家に生まれましたが、跡継ぎ候補ではありませんでした。義政はいつ将軍になり、どのような生涯を送ったのでしょうか。

室町幕府の第8代将軍

足利義政は、室町幕府の第8代将軍です。1449年(文安6)から73年(文明5)まで、24年間、将軍の座に就いていました。

ただし政治的な能力は低かったらしく、将軍としての実績もほとんどありません。

将軍を引退した後は、京都の東山(ひがしやま)に山荘を建てて移り住みます。1490年に55歳で亡くなるまで、多くの文化人と交流を深め、芸術や趣味を楽しみながら余生を過ごしました。

京都東山から京都市街をのぞむ(京都市左京区)

8歳で将軍職、10代で将軍に就任

義政は、第6代将軍・足利義教(よしのり)の息子でしたが、兄が跡を継ぐ予定だったため、母親の親戚である公家(くげ)・烏丸資任(からすまるすけとう)の下で育てられます。

ところが父と兄が相次いで亡くなり、1443年(嘉吉3)、義政はわずか8歳で将軍職に選ばれます。まだ元服前だったため、実際に政務を行うことはなく、主に管領(かんれい)と呼ばれる大人が補佐をしていました。

14歳で元服した義政は、正式に将軍に就任(1449年)、政治の表舞台に登場します。

義政の将軍時代に起きた事件

義政は、将軍になった当初は、とても意欲的で、政治に前向きに取り組んでいたそうです。しかし、何をやってもうまくいかず、徐々に無気力になっていきます。

義政が政治への意欲をなくした主な理由と、応仁の乱が起こるまでの経緯を見ていきましょう。

「三魔」による政治への介入

義政の気力を奪ったのは、周囲の大人たちです。特に「三魔」が政治に深く介入したことで、義政は主導権を握れなくなってしまいます。

「三魔」とは、乳母(うば)の今参局(いままいりのつぼね)、養育者の烏丸資任、側近の有馬持家(ありまもちいえ)の3人を指します。

3人とも名前に「ま」が入っていることから、「三魔」と呼ばれています。

さらに義政の母親や正室の実家である「日野氏」と、有力な守護大名までもが政治に介入を始め、若い将軍の影はますます薄くなっていきました。

長く続いた内乱「享徳の乱」

1455年(享徳4)に起こった「享徳の乱(きょうとくのらん)」は、関東地方で発生した内乱です。

鎌倉公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)が、関東管領の上杉憲忠(うえすぎのりただ)を暗殺したことがきっかけとなり、28年もの間、続きました。鎌倉公方は室町幕府の関東支部のようなもので、関東管領は鎌倉公方の補佐役です。

暗殺事件が起こったとき、義政は成氏を辞めさせて、異母兄・足利政知(まさとも)を新しい鎌倉公方にすることで争いを収めようとしました。

しかし、関東の武士は京都から来る新しい公方に従う気がなく、政知は鎌倉に入れません。

義政は関東への出兵を命じますが、総大将の守護大名・斯波氏(しばし)が言うことを聞かずに国元へ帰ってしまいます。他の守護大名も頼りにならず、争いを収められなかった義政は失望し、気力を失っていくのです。

跡継ぎ問題から「応仁の乱」へ

三魔の介入や守護大名の勝手な行動にうんざりした義政は、趣味に没頭したり、酒宴に明け暮れたりして毎日を過ごすようになります。

正室・日野富子(ひのとみこ)との間に子どもができなかったため、僧侶だった弟・義視(よしみ)に将軍職を譲ると約束して隠居の準備に入りました(1464年)。

ところが、義視を養子に迎えた直後の翌年、富子が男の子(のちの第9代将軍・義尚)を出産します。富子は、義政に我が子を跡継ぎにするよう迫りますが、義政は決められず、跡継ぎ問題を先延ばしにしてしまうのです。

義政の煮え切らない態度に我慢できなくなった富子は、守護大名の山名氏(やまなし)を頼り、義視は管領の細川氏に協力を依頼して対立を深めていきます。

山名氏と細川氏も、元々対立していたことから、跡継ぎ問題は両家の争いに形を変えます。

争いは他の管領家や守護大名も巻き込んで長期化し、「応仁の乱」へと発展していくのです。

日野富子と足利義視の跡目争いは、やがて山名宗全 vs 細川勝元の代理戦争へと発展

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日本文化の発展に貢献した将軍

室町時代は、現在の日本人の生活様式や美意識の元となる、さまざまな文化が花開いた時代です。特に義政は芸能や芸術を愛し、文化の発展に大きく貢献しました。文化面での主な功績を見ていきましょう。

今もなお受け継がれる「東山文化」

1473年(文明5)に将軍職を引退した後、1482年、東山に山荘を建てて引っ越した義政は、芸能・芸術に携わる人たちを幅広く支援します。身分は問わず、実力のある者に支援を惜しまなかったので、多くの芸能・芸術が育まれていきました。

義政の支援によって発展した文化は「東山文化」と呼ばれています。

能や狂言などの伝統芸能、茶の湯、水墨画、書院造りなどは、ほぼこの時代に形ができ上がったと考えてよいでしょう。なかでも書院造りは、現代の住宅の基本様式となったことで知られています。

書院造りの部屋。床の間や違棚(ちがいだな)を備えた様式(京都市左京区瑠璃光院)

 

ふすまや障子(しょうじ)で部屋を分け、プライベートな空間が設けられるようになったのは書院造りが最初といわれ、玄関や雨戸、縁側(えんがわ)なども書院造りが発展して誕生したものです。

世界遺産「銀閣寺」

義政が住んでいた東山山荘(1483年に完成)は「銀閣寺」とも呼ばれ、世界遺産に指定された「古都京都の文化財」の構成資産17カ所の一つです。

哲学の道。琵琶湖疎水分線に沿った歩道で、若王子(にゃくおうじ)橋から銀閣寺橋に続く1.5㎞が、「日本の道100選」に選定されている(京都市左京区)

 

国宝に指定されている「銀閣」や「東求堂(とうぐどう)」などの建造物と庭園があり、観光名所となっています。

銀閣は、第3代将軍・足利義満(よしみつ)が建立した「金閣」と比べると、質素で落ち着いた雰囲気が特徴です。

上は足利義満が建立した金閣寺(正式には北山鹿苑禪寺)。銀閣寺とよく並び称される。

 

また、東求堂には「同仁斎(どうじんさい)」と名付けられた書院造りの部屋があり、義政が書斎として愛用していたと伝わっています。

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この時代の理解を深めるためにおすすめの本

室町幕府とその背景をもっと深く知ることで、応仁の乱やそれに関連する人物のことがさらに深く理解できます。この時代の背景について親子で学べる本をご紹介します。

小学館版 少年少女 日本の歴史9 「立ち上がる民衆 室町時代後期」


将軍・足利義教が守護大名に暗殺されてしまった経緯や、飢饉に苦しんだ農民が一揆(正長の土一揆)を起こすまでのいきさつが描かれます。将軍の後継ぎ問題から発生した応仁の乱はなぜ10年も続いたのか、など室町幕府後期の混乱の治世がまんがで解説されています。

中公文庫 新装版 マンガ日本の歴史11 「室町幕府の衰退と応仁の乱」


飢餓と悪疫が流行する社会不安のなかで、日本史上初めての農民蜂起がおこった室町時代。続く応仁の乱は、十数年にわたり京を中心とする西国のほとんどを戦火に巻き込み、室町時代が築き上げた京の都を焦土と化します。その激動の時代をリアリティのある描写でえがく歴史まんがです。

集英社 学習まんが 日本の歴史7 「武士の成長と室町文化」


後醍醐天皇と足利尊氏の争いの末、朝廷は京(北朝)と吉野(南朝)に分裂し、やがて尊氏が京に武家政権をたてます。のちに室町幕府となるこの政権のなりたちと、室町時代の文化の誕生がまんがで描かれています。

政治よりも文化に重きを置いた将軍

父親や兄の急死によって、はからずも将軍となった足利義政は、政治的手腕をふるい切れずに終わりました。しかし、義政が力を注いだ東山文化は、長い時を超えて、今なお受け継がれています。これは、政治よりも文化に重きを置いた義政にとっては、本望だったといえるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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