「蘇我馬子(そがのうまこ)」は、聖徳太子(しょうとくたいし)と共に、日本史に必ず登場する重要人物です。権力を手に入れるためには手段を選ばない、冷酷非道なイメージを持つ人も少なくありません。馬子は、本当はどのような人物だったのか、聖徳太子との関係も合わせて解説します。
蘇我馬子とは?
蘇我馬子は、いつ頃、歴史に登場し、何をした人なのでしょうか。人生を簡単に振り返ってみましょう。
飛鳥時代に活躍した豪族・政治家
蘇我馬子は、飛鳥(あすか)時代の初期に活躍した政治家です。蘇我家は、代々天皇を補佐する役職「大臣(おおおみ)」を務めており、有力な豪族でした。
馬子も父・蘇我稲目(いなめ)の後を継いで、敏達天皇(びだつてんのう)の代に大臣に就任します。その後、自分と血縁関係のある皇族を天皇にたてつつ、推古(すいこ)天皇の代まで、4代50年以上にわたって政界を牛耳りました。
また馬子は朝鮮や中国の文化を熱心に取り入れ、日本に「仏教」を広めたことでも知られています。馬子が建立した飛鳥寺(あすかでら)は,日本最初の本格的寺院です。
強引な手段を取ることも
馬子は、状況が不利になると、強引な手段を取ることもありました。敏達天皇の後に即位させた用明(ようめい)天皇がすぐに亡くなり、皇位継承問題が起こったときには、ライバル「物部氏(もののべし)」が推薦した皇子を殺害し、自分が推す皇子を即位させます。
その天皇すら、自分の言うことをきかなくなれば、部下に命じて暗殺してしまうのです。推古天皇の代には、天皇の領地を横取りしようとするなど、まるで天皇を下に見るようなふるまいもあったとされています。
墓といわれる石舞台古墳が奈良に
強大な権力を手にした馬子も、626年にその生涯を終えます。馬子の墓は、奈良県の明日香村にある「石舞台(いしぶたい)古墳」という説が有力です。古墳の近くには、馬子の邸宅と庭園があったと考えられる遺構も見つかっています。
石舞台古墳は、石室の封土がなく、入り口が大きく露出しているのが特徴です。封土を取り除かれてしまうのは、埋葬者が人々の反感をかっていたからという考え方もあり、石舞台古墳が蘇我馬子の墓である可能性は非常に高いといえます。
蘇我馬子が行ったこと
馬子の政策により、蘇我一族は全盛期を迎え、日本の文化も大きく発展しました。歴史に残る、馬子の主な活動を紹介します。
丁未の乱で物部守屋を破る
「丁未の乱(ていびのらん)」は、馬子が「物部守屋(もののべのもりや)」を破った戦いです。物部氏も蘇我氏同様、代々天皇を補佐する立場にあった豪族でした。
当時、日本には大陸から仏教をはじめとする、さまざまな文化が伝わっていました。多くの国が信仰している仏教を、日本も取り入れるべきと考えた馬子に、日本古来の神々を大切にしていた守屋は強硬に反対します。
守屋は、国内に疫病が流行したのを仏教のせいだと主張して、馬子が敏達天皇の許可を得て建てた寺を焼き、仏像を捨ててしまいました。しかし、敏達天皇の次に即位した用明天皇は、仏教の公認を望み、多くの臣下もそれに賛成していることを知ります。
危機感を覚えた守屋は、用明天皇の即位に不満を持っていた皇子を味方につけ、彼を次の天皇にしようと画策します。守屋の動きに気付いた馬子は、先手を打って皇子を殺害、大軍を率いて別荘にいた守屋を襲い、物部氏を滅ぼしたのです。
飛鳥寺を建立する
物部氏を退けた馬子は、仏教を手厚く保護します。推古天皇の時代には日本初の本格寺院、「飛鳥寺」を建立しました。瓦の製造や堂塔の建設には、朝鮮から呼ばれた技術者が多く携わり、日本の建築技術の発展に大きく貢献します。
付近には天皇の住居が造られ、飛鳥寺は政治の中心地となりました。仏教を通じて、中国や朝鮮との交流も活発になり、学問や芸術も栄えていきます。
新しい文化を受け入れ、保護した馬子の政策により、日本は文明国家の仲間入りを果たしたのです。
聖徳太子との関係は?
聖徳太子(厩戸皇子・うまやどのおうじ)は、推古天皇のもとで、蘇我馬子と共同で天皇を補佐したとされる人物です。それまでひとりで政治を動かしてきた馬子にとって、聖徳太子は、どのような存在だったのでしょうか。馬子と聖徳太子の関係を見ていきましょう。
2人の間には血縁関係がある
当時の有力な豪族は、権力をにぎるため、娘を天皇に嫁がせて血縁関係を築いていました。馬子の父・稲目も、2人の娘を欽明(きんめい)天皇の后(きさき)とします。
娘のひとりは用明天皇や推古天皇、もうひとりは用明天皇の后となる皇女を産みました。その皇女と用明天皇との間に産まれたのが、聖徳太子です。
馬子は聖徳太子にとって、父方・母方双方の大おじ(祖母の兄弟)であったのです。聖徳太子は、馬子の娘を妃に迎えており、2人は婿(むこ)と舅(しゅうと)の関係でもありました。
推古天皇のもとで二頭政治を行う
用明天皇の崩御後、馬子は甥(おい)の崇峻(すしゅん)天皇を即位させますが、思い通りにならなかったため暗殺してしまいます。その後を継いだのが、日本最初の女性天皇・推古天皇です。
推古天皇は馬子の姪(めい)にあたりますが、彼の専横を抑えるために聖徳太子を摂政(せっしょう)に取り立て、馬子との「二頭政治」を行わせます。馬子の力を利用しつつも、好き勝手にはさせず、天皇中心の中央集権国家を目指したのです。
摂政になった聖徳太子は「遣隋使(けんずいし)の派遣」「冠位十二階(かんいじゅうにかい)」「十七条憲法」といった、後世に残る政策を打ち出して実績を上げます。
しかし聖徳太子が亡くなると、馬子は再び権力を独占して、蘇我氏の勢いを強めていきました。孫の「入鹿(いるか)」の代には、天皇をしのぐといわれ、これが後の「大化の改新」につながるのです。
蘇我氏の全盛期を築いた蘇我馬子
蘇我馬子は一族が築いた血縁関係を巧みに利用し、強大な権力を手にします。ライバルとの政争や暗殺による悪いイメージもありますが、当時のトレンドだった仏教を、いち早く取り入れるなど、先見性も持ち合わせていました。
聖徳太子が摂政だった頃には、補佐役に徹し、勢力をしっかりキープしています。長い間、政界トップの座を守り続けた馬子の生き方を、現代を生きる子どもにも正しく伝えてあげましょう。
この時代をもっと知りたい方のためにおすすめの本
小学館版学習まんが 少年少女 人物日本の歴史 「聖徳太子」
歴史上の人物にスポットを当てた名作学習まんがを電子化しました。蘇我馬子の同時代の人物として、日本史において重要な聖徳太子の生涯を描きます。豪族・蘇我氏の家に生まれた彼は、推古天皇の摂政として、当時の大陸の進んだ制度を取り入れ、仏教に基づいた人道的な国造りをめざしました。聖徳太子の功績を知ることで、飛鳥時代の社会の様子をより深く理解することができます。
角川まんが学習シリーズ 日本の歴史2 「飛鳥朝廷と仏教」
飛鳥時代から大仏が造立された奈良時代までを追う学習まんがです。6世紀半ば、聖徳太子は、蘇我氏とともに十七条の憲法や冠位十二階の制度によって新しい国家を造りあげます。その後、大化の改新、壬申の乱などの争いを経て律令国家としての日本ができるまで、その歴史的経緯が理解できます。
新潮文庫 「蘇我氏の正体」
こちらは歴史好きのパパ・ママにおすすめの本格的な歴史論考の書です。大化改新での入鹿暗殺により、悪の象徴とされてきた蘇我氏。以降、歴史の表舞台から姿を消した彼らについてその出自や正体を、最新の研究成果と著者独自の調査で明らかにしていきます。
祟り、朝鮮半島、天皇、そして浦島太郎など古代史に散らばるキーワードから、悲劇の蘇我一族について大胆な解釈で捉え直しています。
構成・文/HugKum編集部