菓子には向かない豆「ささげ」から生まれた伝統菓子『甘名納糖』
甘納豆は、小腹が空いた時に気軽に食べられるおやつとして、また、濃厚な甘味を楽しめるお茶請けとしても、地味な存在ながら、長らく親しまれてきた日本の伝統的な和菓子です。
江戸時代後期の安政年間に榮太樓の3代目である細田安兵衛が、菓子の原料として向かなかった、ささげ(大角豆)と蜜飴を創意工夫して、安くて美味しい菓子として手土産用に「甘名納糖」(あまなっとう)を作り出しました。
縁起の良さで赤飯に使われていた「ささげ」を工夫して菓子に
ささげは、煮ても皮が破れないところから、「腹が切れない」=「切腹しない」に通じるとして、江戸のおめでたい豆として赤飯に使われてきましたが、菓子の原料としては向かないとされてきました。
しかし、値段も安かったことに目をつけ、庶民に安く美味しい菓子が作れないものかと苦心して出来たのが「甘名納糖」です。
なぜ、「甘名納糖」と名づけられたか
当初は「淡雪」と名付けられそうですが、3代目と以前から交友のあった文人墨客の田中平八郎氏が、遠州浜松(静岡県)名物「浜名納豆」に似ているゆえに甘名納糖(あまなっとう)と名づけたら、との助言を入れて命名されたと伝わっています。
なお、榮太樓の「甘名納糖」は1877年(明治10年)の、国の産業発展を推進する「内国勧業博覧会」にて優等賞を受賞まし、その名は一躍全国に広まりました。
江戸時代から変わらぬこだわりの製法を貫いています
その昔は、安価だった「ささげ」も、いまや国産品は、かなり値の張る高級品となってしまいました。しかしながら、その製法は、江戸時代から変わっていません。
『甘名納糖』の深みのある甘さは、ゆであげた「ささげ」を蜜づけにする「糖上げ」と呼ばれる工程を、4度繰り返すことにより徐々に糖度が上がることで産み出されます。
手間のかかる製造法ゆえ、日本橋本店でのみ販売している限定品となっています。何代にも渡って贔屓にしてくださるお客様のご愛顧にお応えして、作り続けています。
榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)の歴史は、代々菓子業を営んできた細田家の子孫・徳兵衛が文政元年に江戸出府を果たしたことに始まります。最初は九段で「井筒屋」の屋号を掲げ菓子の製造販売をしておりました。が、やがて代が替わり、徳兵衛のひ孫に当たる栄太郎(のちに細田安兵衛を継承)が安政四年に現在の本店の地である日本橋に店舗を構えました。数年後、自身の幼名にちなみ、屋号を「榮太樓」と改号。アイデアマンであった栄太郎は代表菓子である金鍔の製造販売に加え、甘名納糖、梅ぼ志飴、玉だれなど今に続く菓子を創製し、今日の基盤を築きました。
構成/HugKum編集部