ムガル帝国の誕生から滅亡までを解説。今も残る文化や宗教とは【親子で歴史を学ぶ】

ムガル帝国は、インドで約300年続いたイスラム国家です。ヒンドゥー教とイスラム教が融合した独特の文化が特徴で、インドの歴史上、非常に重要な役割を果たした国家としても知られています。ムガル帝国の歴史と文化について分かりやすく解説します。

ムガル帝国とは

ムガル帝国」は、いつ、どこに建てられた国なのでしょうか。名前の由来も併せて見ていきましょう。

16世紀にインドに興った帝国

ムガル帝国は1526年に、インド北部の都市デリーやアーグラを中心に建国された「イスラム国家」です。国名の「ムガル」は、「モンゴル」を表す、ペルシャ語「ムグール」がなまった言葉です。

建国者である「バーブル」が、モンゴル帝国の末裔(まつえい)だったため、ムガル帝国と呼ばれています。

ムガル帝国は、インド半島の南端部まで支配するほどの国家に発展しましたが、徐々に衰えて1858年に滅亡しました。

ムガル帝国の成立から滅亡まで

ヒンドゥー教徒が多数を占めるインドで、なぜイスラム国家のムガル帝国が、300年以上も存続できたのでしょうか。

ムガル帝国成立の経緯や発展の理由、滅亡までの流れを解説します。

1526年バーブルが建国

ムガル帝国の建国者は、「ティムール朝」の王子として生まれた「バーブル」です。バーブルの母は、モンゴル系の出身で、その祖先はチンギス・ハン(モンゴル帝国の建国者)の血筋といわれています。

1504年に、現在のアフガニスタンの首都カブールを征服したバーブルは、北インドへの侵攻を開始します。

1526年には「パーニーパットの戦い」で、当時、インドを支配していた「ロディー朝」に勝利し、ムガル帝国を建国しました。

3代皇帝アクバルの時代に全盛期を迎える

当初のムガル帝国は、デリー周辺を支配するに過ぎない弱小国でした。バーブルの死後、息子の「フマーユーン」が跡を継ぎますが、一時は滅亡状態に追い込まれます。

そんなムガル帝国を発展させたのが、3代皇帝の「アクバル」です。1556年に即位したアクバルは、ヒンドゥー教徒と共存する寛容な政策を実行し、人民の信頼を集めます。

彼は、イスラム教徒以外の人々に課されていた人頭税「ジズヤ」を廃止したほか、自身がヒンドゥー教徒の王女と結婚したり、信仰に関係なく優秀な人材を登用する官僚制度を整備したりして、公平に国を治めました。

アクバルの平和的な政策が功を奏し、内政が安定したムガル帝国は全盛期を迎えます。

6代皇帝アウラングゼーブの没後に衰退

ムガル帝国は、6代皇帝「アウラングゼーブ」の時代に、インドのほぼ全域を支配するまでになりました。しかし、1707年にアウラングゼーブが亡くなったのを機に、一気に衰退が始まります。

衰退の要因は、主に以下の2点です。

・領地を広げ過ぎたため、官僚に与える土地がなくなった
・アウラングゼーブが、ヒンドゥー教徒を弾圧した

アウラングゼーブは、アクバルのようにヒンドゥー教徒に寛容な皇帝ではありませんでした。彼はヒンドゥー寺院の改修を禁じたり、差別関税を課したりして、弾圧の姿勢を強めていきます。

しまいには、アクバルが廃止した人頭税「ジズヤ」まで復活させてしまいました。ジズヤの復活を受け、ヒンドゥー教徒は各地で反乱を起こすようになります。

新しい土地をもらえない官僚たちも不満をつのらせ、対応に追われるムガル帝国は、さらに弱っていくのです。

イギリスの植民地となり、インド帝国が成立

アウラングゼーブの没後、ヒンドゥー教徒をはじめとする反ムガル勢力が台頭し、帝国の支配領域は大幅に縮小します。

18世紀半ばには、「イギリス東インド会社」がインドを植民地化したため、ムガル帝国の存在感はますます薄れていきました。

ムガル帝国滅亡のきっかけとなったのは、1857年に起こった「インド大反乱」です。

イギリス東インド会社の傭兵(ようへい)「シパーヒー」が雇い主に対して起こした反乱で、植民地政策に不満を持つ人々が大勢加わり、インド全土に拡大しました。

ムガル皇帝も、盟主として担ぎ出されましたが、反乱軍は統制を欠き、イギリス軍にあっさり鎮圧されます。この時点でムガル皇帝は廃され、帝国も滅亡しました。

その後、イギリス東インド会社は、インド大反乱の責任を取って解散させられ、イギリスが直接統治する「インド帝国」が成立します。

ウマイド・バワン・パレス(写真中央、インド・ジョードプル)。ジョードプルは、インド北西部ラージャスターン州第2の都市。約10㎞の城壁に囲まれた城郭都市で、この地を治めたマールワール王国は、ムガル帝国の従属下に置かれたが、自治権は認められた。インド帝国時代も存続している。王宮の下に広がる旧市街は、壁が青く塗られている家が多いので、愛称「ブルー・シティー」。
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インド=イスラーム文化の誕生

ムガル帝国が長い歴史の中で育んだ独特の文化は、インド=イスラーム文化と呼ばれています。その多くは、現在のインドにも伝わり、私たちも目にすることが可能です。

インド=イスラーム文化の特徴と、代表的建築物を紹介します。

ヒンドゥー文化にイスラーム文化が融合

インド=イスラーム文化では、芸術分野だけでなく、新しい言語や宗教も生まれています。特に有名なのが「細密画」「ウルドゥー語」「シク教」の三つです。

イスラム圏の国イランから伝わった細密画は、インド独自の技法と融合し、宮廷芸術の「ムガル絵画」と庶民芸術の「ラージプート絵画」に発展しました。

ウルドゥー語は、現在のパキスタンの国語です。11世紀頃からヒンドゥー語・ペルシア語・アラビア語などが混ざり合って発達した混成言語で、ムガル帝国の時代には、ウルドゥー文学が花開きました。

シク教は、ヒンドゥー教の改革時に、イスラム神秘主義を導入した結果、生まれた教義です。16世紀前半に「ナーナク」という人物によって創られました。

代表建築「タージ・マハル」

インド=イスラーム文化の代表的な建築物が、「タージ・マハル」です。白い大理石で造られた美しい姿は、「インドの至宝」と呼ばれ、世界遺産にも登録されています。

タージ・マハルは、ムガル帝国5代皇帝「シャー・ジャハーンが、亡くなった王妃を偲(しの)んで建てた霊廟(れいびょう)です。多くの費用と人材を投じて、22年もの歳月をかけて完成しました。

タージ・マハルの威容からは、当時のムガル帝国の繁栄ぶりがうかがえます。

大楼門から観る「タージ・マハル」(インド・アーグラ)。1983年、ユネスコ世界遺産登録。

現代インドにつながるイスラム国家

平和な国づくりを目指し、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との融和を図った皇帝アクバルの政策は、帝国の繁栄はもちろん、独自文化の発展にも貢献しました。

続く皇帝たちが、皆、異なる宗教や文化を受け入れる寛容な心を持ち続けていたならば、帝国の急速な衰退は免れたのかもしれません。

タージ・マハルやウルドゥー語など、現代につながる貴重な文化を生み出したムガル帝国の歴史を学び、世界史への理解度を高めていきましょう。

ムガル帝国をもっと深く知るための参考図書

小学館  学習まんが 世界の歴史  別巻2「イスラム世界Ⅱ」

山川出版社  世界史リブレット「ムガル帝国時代のインド社会」

中公文庫  世界の歴史14「ムガル帝国から英領インドへ」

学研「チャビの世界大冒険  インドで宝さがし  ムガル帝国皇帝の剣をさがせ!」

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構成・文/HugKum編集部

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