江戸の橋のたもとで生まれたお菓子
小麦粉を水で溶いたものを型に流し、餡を入れて焼いた甘いお菓子。江戸時代、日本橋通りの北にある神田堀にかかる今川橋のたもとで誕生しました。つまり、その土地にちなんだ「今川焼」が世に出た最初の名前。
最も古い用例を載せることを主義とする日本最大規模の国語辞典『日本国語大辞典』で調べてみると、
(江戸今川橋辺で始まったのでいう)
小麦粉の皮であんを包み、銅板で焼いた菓子。たいこやき。
*評判記・富貴地座位〔1777〕中「今川やき 那須や彌平 本所」
江戸時代後期に出版された評判記『富貴地座位』が、「今川焼」という名前が初めて確認された文献だとわかります。本所の那須屋という菓子屋が売る今川焼が美味しくて、たいへん評判だったんでしょうね。
作品に登場。夏目漱石も親しんだ?
「今川焼は仲秋の月の形(な)り」と当時の川柳に詠まれたことから、すでに形は丸型だと推測されますが、現在の卵を使った生地とは言い切れず、小麦粉だけでつくった、きんつばのようなものだったかもしれないとのこと。明治時代に入って今川焼は現在の生地となり、夏目漱石の『野分』に登場するなど、全国へと広がっていきます。
「回転焼」は関西での呼び方。全国区は「大判焼」
では、朝ドラでおなじみの「回転焼」という名前。同様に『日本国語大辞典』で調べてみると。。。
関西で、銅板に饅頭の丸型を打ち込み、油をひいて小麦粉を水で溶いたものを流し込み、餡を包み、折り返して焼いたもの。その銅板をくるくる回しながら焼くのでこの名が出た。東京では今川焼という。
*六白金星〔1946〕〈織田作之助〉「授業中に回転焼をいくつ食へるか実験してみたところ、相手の教師によって違ふが、まづ八個は大丈夫だ云々」
関西(朝ドラの舞台も京都ですものね)を主とした呼び名で、名前は製法によるもの。回転焼という名前が登場した初めての文献は、終戦直後の1946(昭和21)年、“おださく”こと織田作之助の小説とされています。
「大判焼」は、週刊誌の連載小説が由来
また、東にも西にも見られる「大判焼」という名前。「週刊朝日」に1950(昭和30)年から連載された獅子文六の『大番』が由来。この小説の舞台となった愛媛県にあるメーカー「松山丸三」が回転焼をつくる機械を製造。『大番』にちなんで回転焼を「大判焼」と名付け、大判焼の製造機として全国に販売しました。というわけで、大判焼が全国区になったのです。
「太鼓焼」がモチーフにしたものとは?
そしてその形にちなんだ「太鼓焼」もメジャーな名前です。『日本国語大辞典』で調べてみると、
今川焼の皮に巴形の焼き印を押したもの。赤穂義士の打ち入りに鳴らした太鼓にちなんだもの。義士焼。大正焼。
*東京風俗志〔1899~1902〕〈平出鏗二郎〉中・八・菓子「雷焼・人形焼・金鍔・今川焼・太鼓焼(タイコヤキ)・紅梅焼等路傍に屋台を構へて」
つまりは明治時代後期にはこの名前が知られていたんですね。赤穂義士のうち入りの際、大石内蔵助が持っている太鼓は二つ巴の紋様が入ったもの。二つ巴は大石家の家紋だということです。
他にも呼び名いろいろ。あなたの地域はどうですか?
回転焼、大判焼、太鼓焼と、その呼び方とルーツを見てきましたが、実は、ほかにも地域に伝わる呼び名がいろいろありました。
・御座候(ござそうろう)
「回転焼」圏だとされる近畿地方ですが、「御座候(ござそうろう)」という名前も兵庫や大阪を中心によく聞かれます。これは1950(昭和25)年に兵庫県姫路市に創業した「御座候」の屋号によるもの。当初はもちろん「回転焼」という名前で販売していましたが、常連のお客さんからいつしか「御座候ください」と注文を受けることが多くなり、商品名を「御座候」にしたのだそう。
・小判焼・自慢焼・夫婦焼・黄金焼・甘太郎
さて今回、筆者はSNSで「あなたの出身地の回転焼の呼び名は?」という質問を友達に投げかけてみました。
「小判焼」(岐阜)、「自慢焼」(山梨)、「夫婦焼」(岡山)、「黄金焼」(神奈川)、「甘太郎」(千葉)などなど、さまざまな名前を発見。どれも素敵なルーツがありそうですね。
さて、あなたの出身地の回転焼、お名前は何ですか?
取材・構成/tsurumaki