壇ノ浦の戦いで起きたこととは? 合戦の経緯をわかりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

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壇ノ浦の戦いは、日本史上でも重要な合戦の一つです。勝敗だけでなく、各軍の戦いぶりや関係者を待ち受ける悲しい運命が、人々の興味をそそります。壇ノ浦の戦いが起きた経緯や当日の様子について、わかりやすく解説します。<上画像:関門海峡をゆく船>

壇ノ浦の戦いとは

「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」という名称は知っていても、詳しい状況までは覚えていない人も多いでしょう。はじめに、戦いの日時や場所など、基本情報を紹介します。

1185年に起こった源平合戦の最終戦

壇ノ浦の戦いは、1185(元暦2)年3月24日に起きた源氏対平氏の海戦です。6年にわたって続いた、源平合戦の最後の戦いとして知られています。

壇ノ浦は、現在の山口県下関(しものせき)市と福岡県北九州市の間にある狭い海峡です。源氏軍の大将は、源頼朝(みなもとのよりとも)の弟・義経(よしつね)で、平氏軍は平知盛(たいらのとももり)を大将に任じ、一族全員で合戦に臨みました。

火の山展望台(下関市)から望む「関門海峡」。手前側が壇ノ浦、奥が和布刈(めかり、北九州市)で、大瀬戸の幅が約600mと狭まっている両者間の急流は「早鞆の瀬(はやとものせ)」という。中央の巨大な吊り橋「関門橋」は、1973(昭和48)年に開通した。

 

戦いは源氏軍の勝利に終わり、敗れた平氏は滅亡します。平氏打倒の悲願を達成した頼朝は、鎌倉で本格的な武家政権をスタートさせることになります。

壇ノ浦の戦いが起こるまでの経緯

壇ノ浦の戦いは、なぜ、起こったのでしょうか。源平合戦の経緯と、平氏が滅亡にまで追いつめられた理由を見ていきましょう。

安徳天皇の即位と平氏への不満

壇ノ浦の戦いの数年前、日本の政治を牛耳っていたのは平清盛(きよもり)でした。清盛は、天皇に嫁いだ娘が男児を生むと、後白河法皇(ごしらかわほうおう)を朝廷から追い出し、孫を「安徳(あんとく)天皇」として即位させます(1180)。

清盛が天皇の外祖父となったおかげで、平氏の力はますます強くなりました。この状況に強い不満を感じたのが、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)です。

1180(治承4)年、以仁王は、全国の源氏に平氏追討の令旨(りょうじ、命令文書)を送り、自らも挙兵します。以仁王の挙兵は失敗に終わりますが、令旨を受け取った源頼朝や源義仲(よしなか)が次々に蜂起(ほうき)し、本格的な源平合戦が始まるのです。

三種の神器を持つ平氏の追討戦が始まる

挙兵した頼朝に対して、清盛は討伐軍を派遣しますが、関東武士団の大軍勢の前にあっさり敗北します。翌1181年には清盛が亡くなり、平氏の勢いは衰えを見せはじめました。

さらに1183(寿永2)年、平氏は源義仲の軍勢に大敗を喫します。平氏一門は、安徳天皇や即位の儀式に必要な「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」とともに、西国に落ちのびていきました。

朝廷は頼朝に、平氏討伐と三種の神器の奪還を命じます。頼朝は弟の範頼(のりより)と義経を平氏討伐軍の大将に任じ、西国へ派遣しました。

一ノ谷(いちのたに、1184)と屋島(やしま、1185)での戦いで源氏軍に連敗した平氏は、三種の神器を死守したまま下関の「彦島(ひこしま)」にたどり着き、壇ノ浦での最終戦を迎えることになります。

もしも途中で平氏が降伏し、三種の神器を返していたら、壇ノ浦の戦いは起こらなかったかもしれません。

壇ノ浦の戦い当日の様子

壇ノ浦の戦いでは、源氏の勝因として「潮流の変化」や「源義経の卑怯(ひきょう)な作戦」などの説が伝わっています。

ただし、近年は、いずれの説も事実ではないと考えられています。現在、分かっていることをもとに、両軍の戦いぶりを振り返ってみましょう。

得意な海上戦に賭けた平氏軍

屋島の戦いに敗れた後、平氏は彦島に拠点を移します。平氏はもともと、海賊討伐や日宋(にっそう)貿易のために瀬戸内海の航路をよく利用しており、海での戦いが得意でした。

潮の流れもよく知っている自分たちの方が、関東で陸上の戦いばかりしてきた源氏軍よりも、海で有利なのは明らかです。

さらに、追いつめられているとはいえ、平氏軍にはおよそ500艘(そう)もの船という「戦力」もありました。

こうして得意な海上で戦うことが決まり、平氏一門の全員が船に乗って、彦島を出港します。

「壇の浦古戦場址」石碑(下関市みもすそ川公園内)。正午頃、戦いは始まっている。両軍ともに、できるだけ速い潮流に左右されずに操船できる時間帯を選んだのでは、といわれる。対岸の彦島を出港した平氏一門は、海での戦いにすべてを賭けたが……

周到な準備で臨んだ源氏軍

対する源氏も、決戦に向けて着々と準備を進めていました。範頼の軍勢が、九州にまわって平家の退路を断ち、義経の軍勢が、船で彦島に向かうことが決まります。

義経は、紀伊(きい)国(現在の和歌山県)熊野水軍や伊予(いよ)国(現在の愛媛県)河野水軍などの有力な水軍を味方に付け、800艘を超える船を手に入れたといわれています。さらに、平氏方の阿波(あわ、現在の徳島県)の武将を、寝返らせることにも成功しました。

壇ノ浦の戦いにおいて、義経には非戦闘員の「漕ぎ手(こぎて)」を射殺して勝ったという、不名誉な噂が伝わっています。しかし、相手が漕ぎ手を狙ってきたら、平氏も同じことをやり返したはずです。

潮流の変化についても、現在では、そこまで戦況に影響はなかったと考えられています。負け続けて、武器の補給もままならなかった平氏と、周到な準備ができた源氏という状況の違いが、源氏軍の本当の勝因といえるかもしれません。

敗れた平氏の滅亡

平氏は、得意な海上戦に持ち込んだにもかかわらず、戦力の差を覆すことはできませんでした。敗戦を悟った平氏方の人々は、自ら命を絶とうと次々に海へ飛び込みます。

その中には、幼い安徳天皇や母の徳子(とくこ)、祖母の二位尼(にいのあま)の姿もありました。二位尼は三種の神器の「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を持ち、安徳天皇とともに身投げしたと伝わっています。

赤間(あかま)神宮(下関市)。わずか8歳で入水した安徳天皇を祀る神社。まるで竜宮城を思わせる朱色の水天門が印象的だ。前身の阿弥陀寺は怪談「耳なし芳一」の舞台で、七盛塚(平氏一門の墓)もある。毎年5月、安徳天皇の霊を慰める先帝祭が行われる。

 

一方、徳子と平氏の棟梁(とうりょう)・平宗盛(むねもり)、清宗(きよむね)の親子は、海中を漂っているときに源氏の船に引き上げられます。天皇の母である徳子は命を助けられ、尼となりました(建礼門院)。しかし、男性陣は処刑されて平氏は滅亡します。

壇ノ浦の戦いにまつわるエピソード

壇ノ浦の戦いは、後世さまざまな伝説を生みました。現代にも語り継がれる源義経の活躍と、三種の神器の行方を紹介します。

源義経の八艘飛び伝説

敗戦が決定的となった後も、平氏軍には1人で戦い続ける武将がいました。兵を率いていた平知盛は「勝敗が決まった以上、罪を重ねる必要はない」と彼を諭します。

武将は「敵の大将を討つまで」といって、義経の船に乗り込みました。しかし、義経は彼を相手にせず、味方の船に飛び移って八艘(はっそう)先まで去ってしまいます。それを見た武将は義経を討つことを諦め、入水(じゅすい)しました。

義経は、一ノ谷や屋島でも柔軟な発想でピンチを乗り切り、勝利を手にした武将です。少年時代に、天狗(てんぐ)に武術を教わり、大変身軽だったとも伝わります。

八艘飛び自体は後世の創作とされていますが、義経の戦いぶりを象徴するエピソードとして、長く語り継がれているのです。

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草薙剣の大捜索

源氏軍は平氏が持ち去った三種の神器のうち、「八咫鏡(やたのかがみ)」と「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を確保します。しかし、「草薙剣」だけは、いくら捜しても見つかりませんでした。

そこで、源範頼は、現地に残って剣を捜すものの発見できず、10月頃に鎌倉へ戻っています。以降は、朝廷の主導で、壇ノ浦の戦いから27年後の1212(建暦2)年まで捜索が続けられました。

実は、平氏が持っていた三種の神器は、本物ではなく「写し」だったといわれています。本物はそれぞれ別の場所(熱田神宮?)にあり、天皇すら見ることはできないほど厳重に保管されているというのです。

とはいえ、天皇即位の儀式に写しが必要なことに変わりはありません。だからこそ、平氏は最後まで三種の神器に固執したと考えられています。

さまざまなドラマが生まれた壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦いは、半日程度で決着が付いたそうです。ほんの数年前まで栄華を極めていた平氏が、あっけなく滅んだ事実に、当時の人々も衝撃を受けたことでしょう。

兵士だけでなく、女性や子ども、宝物などが犠牲になったことも、壇ノ浦の戦いの特徴です。源平合戦の最後を飾った戦いについてあらためて学び、当時の歴史への理解を深めていきましょう。

時代背景をもっと知りたい人のための参考図書

小学館版  少年少女学習まんが  日本の歴史6「源平の戦い」

学研まんが  人物日本史「源義経  平氏追討の戦い」

新人物往来社 森本繫「源平  海の合戦  史実と伝承を紀行する」

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構成・文/HugKum編集部

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