鳥羽・伏見の戦いをわかりやすく解説! 勝敗の決め手や戦後の出来事も【親子で歴史を学ぶ】

鳥羽・伏見の戦いは、幕末から明治にかけての歴史を学ぶときに欠かせない重要な出来事です。戦いが起こった背景やその後の経過を正しく知ることで、当時の政情を理解しやすくなります。鳥羽・伏見の戦いの詳細を、わかりやすく解説します。

鳥羽・伏見の戦いの概要をおさらい

「鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)」とは、どのような出来事だったのでしょうか。戦いが起こった日時や場所、対戦相手などの基本項目をおさらいしましょう。

誰が戦ったの?

鳥羽・伏見の戦いは、明治新政府と旧幕府勢力との武力衝突の「初戦」を指します。「大政奉還(たいせいほうかん)」「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」(いずれも1867年)によって江戸幕府がなくなり、明治新政府が発足してすぐに起こりました。

新政府側として戦いに臨んだのは、倒幕を主導した薩摩藩長州藩です。旧幕府軍には、旧幕府の陸軍・会津藩・桑名藩・新選組などが参加しています。

旧幕府軍の大将は、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)です。ただし、慶喜自身は、体調不良を理由に大坂城に留まり、戦闘には参加していません。

現在の大阪城(大阪市)。王政復古の大号令の後、二条城を追われた慶喜が居城とした大坂城。「太閤はんのお城」といわれ、完成に15年を要した「豊臣大坂城」はほとんどが埋没している。今、私たちが目にするのは、秀忠が再建した「徳川大坂城」。

いつ、どこで起こったの?

鳥羽・伏見の戦いは1868年1月27日(旧暦では慶応4年1月3日)に始まり、約4日で終結しています。戦いの名称となった「鳥羽・伏見」は、現在の京都市南部に存在する地名です。

王政復古の大号令で京都を追われた慶喜は、大坂城を拠点としていました。大坂城を出発した旧幕府軍は、二手に分かれて京都を目指します。

一方は伏見奉行所(伏見区讃岐町)や本願寺別院(伏見区大坂町)に布陣、もう一方は鳥羽街道を通って城南宮(伏見区中島鳥羽離宮町)付近の小枝橋から、京都市内に入る予定でした。

城南宮や伏見奉行所跡地付近には、現在も戦場だったことを示す石碑が立っています。

鳥羽・伏見の戦いが起こった背景

新政府軍と旧幕府軍は、なぜ戦う必要があったのでしょうか。鳥羽・伏見の戦いが起こった背景を見ていきましょう。

徳川家の排除を目指す新政府

1867年11月9日(旧暦では慶応3年10月14日)、徳川慶喜が大政奉還(政権を朝廷へ返上すること)を実行します。この大政奉還には二つの狙いがありました。

・薩摩藩と長州藩による討幕を阻止する
・朝廷に代わり、長く将軍を務めた徳川家が政治を動かす

大政奉還の直前に、慶喜は、薩摩藩と長州藩が天皇から「討幕の密勅(みっちょく)」を入手したと知らされます。当時の幕府は弱体化しており、戦えば負けることは明らかでした。そこで慶喜は、自ら政権を返上し、薩長から幕府を攻撃する理由を奪ったのです。

さらに慶喜は、大政奉還後も、政治の経験に乏しい朝廷の代わりに、徳川家が政治の中心になれると読んでいました。慶喜の狙いは当たり、新政府発足後も幕府時代と変わらない体制が続きます。

この状況に不満を募らせた薩長両藩は、王政復古の大号令を発して、慶喜を政界から退けます。しかし、徳川家を支持する層は、依然として多く、あまり効果がありませんでした。

徳川家を排除するには武力討伐しかないと考えた薩摩藩の西郷隆盛は、戦いのきっかけを作るため江戸に向かいます。

薩摩藩の挑発にのった旧幕府勢力

江戸に到着した西郷は、数百人の浪人を募り、市中で強盗や略奪、殺傷事件を起こさせます。浪人たちの行動はどんどんエスカレートし、一般人にも被害が及ぶほどでした。

江戸の警備を担当していた庄内(しょうない)藩でも屯所(とんしょ)を襲われ、使用人が殺害されてしまいます。怒った庄内藩は江戸の薩摩藩邸に討ち入り、屋敷を焼き払ってしまいました。

大坂城の慶喜の元に事件の一報が入ると、旧幕臣の間で「討薩(薩摩藩を倒すこと)」の機運が一気に高まります。政権を返上してまで武力衝突を避けようと努力してきた慶喜も、薩摩藩のやり方に憤慨する家臣の気持ちを無視できません。

ついに慶喜は「討薩の表(とうさつのひょう)」を出し、薩摩藩への攻撃を宣言します。こうして旧幕府軍は大坂城を出て、京都へ向かうことになりました。

鳥羽・伏見の戦いの流れ

鳥羽・伏見の戦いは突然始まり、意外な形で幕を下ろします。戦闘開始から終結までの流れを、順に見ていきましょう。

鳥羽街道にて戦端が開かれる

旧幕府軍の動きに合わせ、新政府軍も戦闘態勢に入ります。鳥羽街道の小枝橋では、薩摩の軍勢が大砲や兵士を周囲に潜ませ、旧幕府軍の到着を待ち伏せしました。

伏見奉行所周辺では、薩長の連合軍が御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)に陣取り、旧幕府軍と対峙(たいじ)します。

1月27日(旧暦では1月3日)の夕方、小枝橋を通過しようとした旧幕府軍に向けて、薩摩軍の鉄砲や大砲が火を噴きます。とどろく砲声が合図となり、伏見奉行所付近でも本格的な戦闘が始まりました。

錦の御旗が掲げられる

小枝橋では不意の発砲に驚いた旧幕府軍が、なすすべもなく敗走します。伏見奉行所も新政府軍の砲撃で弾薬庫が炎上し、使えなくなりました。

翌日になり、現在の伏見区淀のあたりまで撤退していた旧幕府軍に、さらに追い打ちをかける事態が起こります。新政府軍が、天皇の正式な軍隊であることを示す「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げたのです。

薩摩藩を討伐する予定が、いつの間にか朝敵(ちょうてき、天皇の敵)にされてしまった事実を知り、軍の士気は著しく低下します。その後の戦闘でも、大敗を喫した旧幕府軍は、徳川慶喜のいる大坂城へと退却していきました。

徳川慶喜が江戸へ逃亡

1月30日(旧暦では1月6日)、慶喜は大坂城に集まった兵たちを鼓舞し、自ら出陣する意志を示します。しかし、夜になると、慶喜はわずかな家臣を連れて城を抜け出し、船で江戸へ逃げ帰ってしまいました。

浜離宮恩賜庭園「将軍お上がり場」(東京都中央区)。国の特別名勝に指定されている大名庭園で一般公開している。江戸時代は甲府藩下屋敷で、江戸湾に面したこの将軍お上がり場は、歴代将軍が利用した舟の発着所。徳川慶喜が大坂から帰還した際も、ここで上陸した。

 

翌朝、慶喜の不在を知った兵たちは混乱し、城を出てそれぞれの国元へ戻っていきます。こうして鳥羽・伏見の戦いは、新政府軍の圧勝に終わりました。

慶喜が味方を置いて逃亡した理由は、はっきりとわかっていません。朝敵とされたために戦意を喪失したとの説や、欧米列強の侵略を防ぐために内戦を早く終わらせようとしたとの説がささやかれています。

鳥羽・伏見の戦い、勝敗の決め手とは

開戦当初、旧幕府軍は、兵の数では新政府軍を大きく上回っていました。兵数において不利だった新政府軍が、なぜ勝てたのか、勝敗の決め手を見ていきましょう。

軍勢の多さを生かせなかった旧幕府軍

鳥羽・伏見の戦いに参加した兵は、旧幕府軍が約1万5,000人、新政府軍が約5,000人だったといわれています。しかし、旧幕府軍の大将・徳川慶喜は大坂城から動かず、軍を統率する指揮官も急遽(きゅうきょ)指名されただけの、名ばかりの存在でした。

情報収集が不十分で、はっきりとした作戦もなく、途中で逃げてしまう指揮官もいたようです。これでは、どんなに人数が多くても、勝利は難しかったことでしょう。

京都特有の地形も旧幕府軍を悩ませます。狭い路地が多く見通しが悪いうえに、大軍で一気に押し通ることもできません。一方、新政府軍は京都の地形を熟知しており、路地や建物を上手く利用して戦いました。

もしも旧幕府軍が、軍勢の多さを生かす作戦をしっかりと練っていたら、結果は変わっていたかもしれません。

戦いに備えていた新政府軍

鳥羽・伏見の戦いは、両軍の装備と士気の差が、はっきりと現れたことでも知られています。薩摩藩や長州藩は、それぞれ欧米列強と戦った経験を生かし、最新型の銃や大砲をそろえていました。

しかし、旧幕府軍の最新装備は数が少なく、ほとんどの部隊は火縄銃や刀といった古い武器しか持っていませんでした。強力な剣士集団と恐れられた新選組も、最新式の銃器の前には手も足も出なかったのです。

もともと武力倒幕を目指していた薩長両藩にとって、旧幕府軍との戦いは願ってもないチャンスでもありました。こうした背景からも、兵たちの士気は、旧幕府軍とは比べ物にならないほど高かったと考えられます。

鳥羽・伏見の戦いのその後

鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は、引き続き旧幕府勢力の討伐に向けて動きます。徳川慶喜や、旧幕府軍がたどった運命を見ていきましょう。

江戸城の明け渡し

慶喜は江戸に到着後、上野の寛永寺(かんえいじ)で謹慎生活を始めます。もう新政府に逆らう意志がないことを、態度で示したのです。

東叡山寛永寺(東京都台東区)。山号は、東の比叡山という意味。1625(寛永2)年、天海僧正によって建立され、最盛期の境内地は約30万5000坪。現在は大部分が上野公園で約3万坪。慶喜が謹慎蟄居した「葵の間」は当時のまま保存されている(非公開)。

 

しかし、新政府は慶喜を追討するべく、江戸へ軍勢を派遣します。江戸を戦火から守るため、慶喜は家臣の勝海舟(かつかいしゅう)に新政府軍との交渉を託しました。

勝は新政府軍の大将・西郷隆盛と会談し、徳川家が江戸城を新政府に明け渡す代わりに、市内への攻撃を中止する約束を取り付けます(無血開城)。

1868年5月3日(旧暦では慶応4年4月11日)、江戸城が正式に明け渡されると、慶喜は故郷の水戸(みと)で謹慎生活を送ります。その後は静岡県に住まいを移し、長い余生を過ごしました。

旧幕府軍の抵抗

江戸城が明け渡されたあとも、新政府に反発する旧幕臣が、会津や北海道を舞台に熾烈な戦いを繰り広げます。会津藩の下で京都の警備を担当していた、新選組の土方歳三(ひじかたとしぞう)もその一人です。

土方は、幕府海軍の長・榎本武揚(えのもとたけあき)とともに、箱館(はこだて、現在の函館)の五稜郭(ごりょうかく)を拠点に抵抗を続けました。1869年6月(旧暦では5月)、榎本が新政府軍に降伏したことで、長い内戦はようやく終わります。

鳥羽・伏見の戦いから榎本の降伏まで、約1年半続いた新政府軍と旧幕府軍の戦いは「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」と呼ばれています。

新政府軍の勝利で終わった鳥羽・伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争を経て、日本は明治新政府の元で近代化への道を歩みはじめました。もし、戊辰戦争が起こらずに、徳川家が実権をにぎり続けていたら、日本の近代化はもっと遅れていたかもしれません。

また、徳川慶喜が逃げずに戦っていたら、長引く内戦に欧米諸国が介入しはじめ、日本が植民地化されていた可能性もあります。

日本の将来を左右した鳥羽・伏見の戦いについて想像をめぐらせてみると、歴史への興味がいっそう深まるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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