平城京とは
「平城京(へいじょうきょう)」は、藤原京の遷都(せんと)によってつくられた都です。いつごろ、どこにつくられて、どのような特徴を持つ都だったのか、まずは平城京にまつわる基本的な情報から整理していきましょう。
710年に、現在の奈良県につくられた都
平城京への遷都が行われたのは710(和銅3)年で、時の元明天皇(げんめいてんのう)の命令によるものでした。
所在地は、奈良県奈良市から大和郡山(やまとこおりやま)市にあたる地域です。当時栄えていた唐の長安(ちょうあん)を模して造営され、現地には今もなお当時を偲(しの)ばせる数多くの史跡が残されています。
710年といえば、飛鳥時代から奈良時代へと移行した年でもあります。このあと約80年にわたり、日本の都は奈良の地に置かれました。平城京への遷都とともに、日本の歴史は新しい1ページを迎えたといってよいでしょう。
碁盤の目のようなつくりが特徴
平城京は、南北約4.8km・東西約4.3km・総面積約2,500haという広大な都でした。
都の中心となったのが、北端の中央部に置かれた大内裏(だいだいり)「平城宮」です。平城宮には、天皇の住まいや役人の執務室などが置かれており、都の中心であるとともに、国の中心でもありました。
そんな平城宮前の「朱雀門(すざくもん)」から、都の北端「羅城門(らじょうもん)」までを貫いていたのが「朱雀大路(おおじ)」と呼ばれるメインストリートです。朱雀大路に並行して走る道・垂直に交わる道によって、平城京は碁盤(ごばん)の目のように整然としたつくりになりました。
平城京の年号の覚え方
710年の覚え方には、以下のようなものがあります。
【平城京へ遷都】710年
・納豆(710)ネバネバ平城京
・なんと(710)立派な平城京
・な(7)んて異例(10)な平城遷都
そのほか、平城京にまつわる主な出来事を覚える際に便利な「語呂合わせ」も紹介します。
・718年【養老律令制定】:大宝律令と大差ないや(718)養老律令
・723年【三世一身の法発布】:なにさ(723)三世一身(さんぜいっしん)だけなんて
・724年【聖武天皇即位】:聖武(しょうむ)天皇、何し(724)ましょう?
・743年【墾田永年私財法発布】:なじみ(743)の土地を子孫まで
年号は、語呂合わせにすると覚えやすくなるので、自分なりにアレンジしてみてもよいでしょう。
桓武天皇による平城京の遷都の理由
710年に藤原京からの遷都によってつくられた平城京は、およそ70年後の784(延暦3)年、桓武(かんむ)天皇によって長岡(ながおか)京へと遷都されました。その長岡京も、同じく桓武天皇によってわずか10年で平安京へと遷都されています。
桓武天皇が行った二つの遷都の背景には、いったい何があったのか、主な理由について紹介します。
平城京から長岡京へ
平城京から長岡京へ遷都された背景には、さまざまな理由があったとされています。なかでも、特に重要なポイントと考えられているのが、平城京の立地的な問題です。
大きな河川から離れた場所に位置した平城京では、あらゆる物資の輸送を陸路で行う必要がありました。最盛期には約10万ともいわれる人口を抱えていた平城京において、これは大きな問題であったと考えられます。
同時に問題となっていたのが、慢性的な水資源の不足と、仏教勢力との軋轢(あつれき)です。桂(かつら)川・宇治(うじ)川・淀(よど)川の三つの大河川を擁し、大寺院から離れた場所に位置する長岡京への遷都は、これらの問題を一掃する理想的な解決策だったのです。
長岡京から平安京へ
無事に遷都が行われた長岡京ですが、その歴史は短く、わずか10年で平安京への遷都が行われます。
きっかけとなったのが、長岡京建設の事実上の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺事件です。このとき、暗殺に関わったとして貴族や皇族を含む数多くの人物が処罰されました。
そのなかには、桓武天皇の弟で、当時の皇太子であった早良親王(さわらしんのう)も含まれていました。処罰を不服とした早良親王は、流刑地へ向かう途中で自ら絶食して命を落とします。
早良親王亡きあと、桓武天皇の周囲では近親者の死が相次ぎました。重なる不幸を、早良親王の怨霊(おんりょう)によるものだと考えた桓武天皇は、厄払いとばかりに都を捨てる決断をしたのです。
なお、都周辺の河川の氾濫(はんらん)も、遷都を後押しした大きな理由とされています。怨霊に対する考え方が、現代とはまるで異なる時代であったことを象徴するエピソードといえるでしょう。
平城京が都であった時代の特徴
平城京に都が置かれた時代には、どのような政治が行われ、どのような文化が栄えていたのでしょうか。人々の生活様式も含めて紹介します。
「律令制」による政治
平城京に都が置かれた当時、政治は律令制(りつりょうせい)にもとづいて執り行われていました。律は刑罰の決まり、令は政治を行ううえでの決まりのことで、律令によって治められている国家を「律令国家」といいます。
遷都の資金づくりや、物資の流通をスムーズにするための手段として、貨幣「和同開珎(わどうかいちん)」が鋳造されたのもこの時代です(708)。
現在の役所にあたる「国府」を各地方へ配置したり、朝廷の出先機関として九州に「大宰府(だざいふ)」、東北に「多賀城(たがじょう)」を置いたりと、多くの新しい政策が取り入れられました。
仏教が栄えた「天平文化」
平城京が都であったころ、中国の唐にはシルクロードを通じて、中央アジアやヨーロッパのさまざまな技術や文化が流入していました。
当時の日本もまた、遣唐使(けんとうし)を通じてもたらされた技術や文化を独自に昇華し、これまでにはなかった国際色豊かな文化を開花させていったのです。
この文化は、聖武天皇時代の年号にちなんで「天平(てんぴょう)文化」と呼ばれ、聖武天皇が仏教に深く帰依(きえ)していたことから、仏教が栄えた文化でもありました。
東大寺の「正倉院(しょうそういん)」や興福寺の「阿修羅像(あしゅらぞう)」など、現在も「国宝」として残る数々の建造物や作品が、この時代に生まれています。
平城京に住んでいた人々の生活
平城京の住人として、まず挙げられるのが、天皇とその親族である皇族たちです。政治の中心地であったため、貴族を含む平城宮に勤務する役人も、多くは平城京に居を構えていました。
もちろん、皇族や貴族だけで生活をまわすことはできません。それぞれの屋敷には、食事の用意をする人や動物・穀物の管理をする人、建物の管理をする人など、多種多様な仕事に従事する人たちが雇われていました。
そのほか、僧侶や市で働く人など、歴史には残らないながらも、必要不可欠な仕事に従事する人たちの手によって、平城京の暮らしは支えられていたのです。
遥か昔「平城京」の暮らしに思いをはせてみて
平城京は、710年に藤原京からの遷都によってつくられた都です。遣唐使が行き来していたことから、唐の長安を模した碁盤の目のようなつくりとなっていました。
この時代に花開いた天平文化もまた、唐からもたらされた仏教が、日本独自の解釈のもとで昇華されて生まれたものです。784年に長岡京へ遷都されるまでの74年間、賑やかに人々が行き交い歴史を刻んできた平城京に、思いをはせてみてはいかがでしょうか。
この時代をもっと深く知るために
小学館版学習まんが 少年少女日本の歴史3「奈良の都」
小学館版学習まんが 少年少女日本の歴史 別巻2「史跡・資料館事典」
ジュニア日本の歴史2「都と地方のくらし」
日本史探偵コナン4「奈良時代 裏切りの巨大像」
小学館 新史論 書き替えられた古代史5「『万葉集』が暴く平城京の闇」
小学館 全集日本の歴史3「律令国家と万葉びと」
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構成・文/HugKum編集部